前回は日本が開国してから中国に渡航できるようになってから日清戦争に至るまでの30年ほどの間に書かれた日本人の中国見聞録について通覧した。引き続き日清戦争前後から大正年間にかけての30年ほどの間に公刊された旅行記を取り上げていこう。
宮内猪三郎[1]は『清国事情探検録』(明治27、1894年)において、茶館と茶園の機能について簡略ながら紹介をしている。
中国研究家の西島良爾[2]は『実歴清国一斑』(明治32、1897年、博文館)において、重要な農産物の一つとしての茶について、こう概略を記す。
「緑茶、紅茶ノ二種アリ。雲南、四川、湖南、湖北、江西、安徽、浙江、福建ヲ以テ重ナル産地トス。而シテ緑茶ノ重ナルモノハ浙江省ノ龍井茶、四川省ノ毛尖茶、安徽省ノ珠蘭茶等ニシテ、紅茶ノ重ナルモノハ福建省ノ烏龍茶ヲ以テ第一トナシ江蘇ノ六安茶、雲南ノ普洱茶、安徽ノ家園茶等之ニ次クノ佳品トス。磚茶ハ露国人等漢口ニ一大製造場ヲ興シテ之レカ製作ニ従事セリ。何レモ外国輸出品ニシテ支那富源ノ一大宗タリ。」
また茶館の実態について、その商談場としての機能に着目し、こう記す。
「支那人ノ雑沓スル所ニハ必ズ之ナキハナシ。此茶館ハ単ニ茶ヲ飲ムガ主眼ニアラズシテ、種々ノ取引上ノ相談ヲナシ、且ツ何事ヲ問ハズ相談トシ云ヘバ必ズ茶館ニテ定メタルコトハ之ヲ家内ニ於テ取極メタル事ヨリモ一層正確トシテ、之ヲ重ジ且ツ信頼スベキモノト為セリ。左レバ支那人ト取引ヲナサント欲スルモノハ、茶館ヘ支那人ヲ誘ツテ相談ヲ付ルコトヲ学バザルベカラズ。茶館ニヨリテハ酒ヲ飲マシムル所アレドモ、概シテ茶ヲ専売トナス。上等ノ茶館一人前大抵十銭乃至二十銭ヲ投ズレバ空腹モ充チテ帰ルヲ得ベシ。」
骨董商で実業家の中村作次郎[3]は、『支那漫遊録』(明治32、1897年、東京切偲会)において、上海の茶館に遊んだ経験について、茶館に入ると茶の入った土瓶と茶碗が供せられ、菓子を買ってもよし、阿片煙草を吸ってもよし、寄席・音曲・芝居に興じるもよし、芸妓と遊ぶもよしと記す。北京も訪れ、玉泉山の湧水が茶に好いとしてこう記す。
「これは誠に奇麗で甘い水、北京の水は概して塩分を含んで居るから何処で茶を飲んでも塩辛い、公使館のは玉泉山のを分けて貰ッて居るから誠に純粋の水が飲めます。」
官吏で実業家の村木正憲[4]は、『清韓紀行』(明治33、1898年、出版社不明)において、茶の名産地として九江を挙げ、「茶ノ季節ニ於テハ露西亜ノ義勇艦隊漢口ニ集リ、露国居留地ニ在ル二ヶ所ノ製茶所ヨリ多数ノ西伯利亜及ヲデッサニ向ケ盛ニ運搬スト云フ。」とし、黒茶・緑茶の英国・米国向け輸出の実情を伝え、こう評語を付す。
「支那茶ノ嗜好ハ漸次拡張セラレ居ルヲ以テ、耕作法及製造法ニ改良ヲ施サハ印度茶錫蘭茶ヲ圧スル敢テ難キニ非スト信ス。」
安井正太郎(経歴未詳)の『湖南』(明治38、1905年、博文館)において書かれた湖南地方の茶関連の記載は「湖南産物の大宗なり」とされ、詳細かつ専門的で、引用する紙幅のないのを憾みとする。その主な観点は、茶の産地と価格、茶の取引市場における「茶行」(問屋)「茶号」(製茶者)による「毛茶」(粗製品)の取引方法、精製、漢口への積出、価格などを記す。さらに茶実から採取される茶油の生産、湖南省の茶貿易が衰退しつつある要因として茶園主の証言を紹介している。
遠山景直は上海のガイドブック『上海』(明治40、1907年、本人発行)において茶館のメッカともいうべき上海における茶館の所在地と特徴を紹介し、その概要をこう記す。
「抑々茶館は則ち喫茶店の大厦高樓なり。其茶は多く雨前(穀雨以前に摘む)の龍井(産茶の地)にして壱碗五分(我五銭)紅茶は(我六銭)は定規なれども、同芳、怡珍等を除くの外は外国人なるときは兎角洋人加倍の例に依れり。又四馬路茶館の多くは煙館を兼ぬるを以て好奇の士にあらざるよりは足跡を汚すべきの家にあらす。唯支那人としては必要の機關にして、友人と共に此に会合し商機を察し商略を談じ、売買すべく、契約すべく亦休憩して其心を慰むる等其益する所多々なるべし。然れども夜は魔窟と変じるを以て、同芳、怡珍等の如きは夜間は営業せず。」
佐藤善治郎(経歴未詳)の『南清紀行』(明治44、1911年、良明堂書店)における茶館実体験の記録は臨場感があって興味深い(引用に当たって総ルビを除去)。
「市街にて殊に目につくは茶館である。茶館は支那特有のもので、単なる鬱散の外に、我国の待合や商業取引所の性質を兼ねて居る。南清にては何れの市街に於ても、最も壮大なる建築物は茶館である。二三層楼にして、能く数百人を容る。四馬路(す ま ろ)にも青蓮閣、一壺春(いっ こ しん)など数軒ある。悠長なる支那人等る。
予等は昼食の材料を買って、青蓮閣に登った。三階に登りて見れば、幅五六間、長二十間許(ばかり)、之に石入の五尺平方ばかりの卓子が二列になって三四十、各四方に椅子を置いてある。之に支那人が満ちて居る。彫刻や彩燈は甚だ美である。飯椀位で蓋あるものに茶を汲み、湯差を添えて出し、小皿に西瓜の実の炙りたるを出す。茶碗の蓋を開いて見れば、大きな茶葉が一杯ある。呑むに困ると思えば、これは蓋をした儘で呑むのであるそうな。菓子を売る者、支那料理を売る者、煙管や花簪など売りに来る者、まぎれて乞食も来る。愛らしき少女が予等の顔を見て「かんざしイ」とやったのは可愛かった。夕方になれば芸娼妓の類がやって来て、客に秋波を送り、拉し去るという事も聞いた。予等は携えたる食物を喫して一時間許憩い、価はと聞けば、二人にて五十銭という。他の店員に問えは三十銭という。即ち三十銭払いて出ずれば、さきの店員「多謝多謝」とて笑顔にて見送る。面の皮の厚いのに先ず驚いた。」
この当時、中国旅行で目に付くのは茶館の賑わいだったようで、中野孤山(経歴未詳)の『支那大陸横断遊蜀雑俎』(大正2、1913年、六盟館、松村文海堂販売)にも記載があるほか、同時期の前田利定[5]の『支那遊記』(大正2、1913年、民友社)では茶館での参与観察を通して市井の重要な情報交換と社交の場としての機能に着目している。
「支那市街を一たび通りて見れば、最もよく眼につくものは茶館である。之は支那の特徴である。何れの町にもない所はない。蓋附の飯碗大の碗の底に紅茶一ツマミ入れ、之に開水(湯)を満々と注ぎて持ち来る。其価は僅かに二文(日本の穴銭即ち耳白)お代りの開水は何杯でもロハで供給するのみならず席料もなにもいらん。若し何かたべたければ他より売りに来る点心(菓子)なり、湯元(団子)なりパオツ(パン)なり、買うことも出来る。何時通って見ても千客万来大入叶と云う大繁昌で、喧噪囂々談声が巷に溢れて居る。此所が支那人の共同倶楽部で、最も有益なる社交組織機関である。日々の物価は勿論政治上社会上の出来事は、細大となく凡て口耳相伝播するので、新聞も雑誌もなき蜀都の如き取分け重要の場所である。此れがあるから万般の出来事が置郵送電の如く、速に世に伝わり、処世の便宜ともなり、人智開発の一助となるのである。何の某が日本へ遊学したとか、或は日本教習が昨夜北門より入蜀優級師範学堂に着任したとか、二万五千円の彩票が何の某の福神となったとかと云うことは翌朝迅速に茶館の談題(はなし だい)となり、忽ち伝播するので電報よりも早くひろまると云う。地方の小駅に至るまで此の社交機関は備わっている。」
やや時代が下って辛亥革命後の大正年間末期となると、ジャーナリストで中国に長く在住した丸山昏迷[6]の北京の生活実用ガイドブック『北京』(大正10、1921年、本人発行)に、中国人の飲茶習慣についての簡単な紹介が出ている。
「【茶煙草其他】サモワルを発明した露西亜人は非常に茶を飲む国民であるというが、それにも劣らず多く茶を呑む国民は支那人であろう。これは空気が乾燥しているのが其主な原因かと思われる。その愛用の茶には紅茶、緑茶、烏龍茶、及び磚茶の四種がある。紅茶は多く外国へ輸出せられ、緑茶は日本の緑茶に似ている。烏龍茶は紅茶の一種で始めて福建で製造されたもので北京地方ではあまり用いられて居らぬ。磚茶は緑茶又は紅茶の粉を蒸して之れを型に入れて固めたもので、多く蒙古露西亜方面へ輸入し北京附近ではあまり用いられぬ。最広く用いられて居る緑茶には茉莉花、水圭花、木蘭花、珠蘭花、橙花等の芳香を有する乾花を入れたのがある。支那人は此の芳香のあるものを非常に喜ぶ。
茶は普通日本などの如く一斤二斤と云って売買するが、その外に一回分を 一包にして売って居る。支那人は深く茶を愛用するけれども、ただ飲むばかりで日本の如く点茶、茶の湯というような所作事は一切しない。」
中国全般というよりも北京を中心とする北方中国人の飲茶習慣の概況を伝えるものとみるべきであろう。
いっぽう上海についても大正期以降多くの見聞記が残されており、とりわけ大正12(1923)年に長崎との定期航路が開かれてから多くの日本人が訪れ長期滞在する身近な都市となった。東亜同文書院出身で上海の実業界で活躍する山崎九市は、『上海一覧』(大正13、1924年、至誠堂新聞舗)において、下記のように茶館の機能を解説したうえで、利用者の便を図り茶館とその所在地を掲げている。
「茶館の機能は本来閑人の茶飲場であったが、其場所柄自ら社交機關として利用され後には一種の取引所の觀を呈するものも出来た。商人は営業上種々の連絡を保つ必要上、一定の茶館を指定して其所を同業者の会合所とし每日其茶館に出入して商况の聞合せ売買の取極めなどして居る。故に其所に集ったの(ママ)者の意向によって自ら其取扱商品の相場が定まり其相場は殆ど公定相場の如き権威あるものである。」
この時期の渡華見聞録では、日本人の来訪が増えるとともに、長期滞在型旅行、あるいは現地に定職を持つ居住者の記録が増えてきた。そこで中国人にとっての飲茶習慣については、日本人の生活感覚と比較しながら、飲茶の場所としての茶館へと関心が移っていった。茶館は飲食という生活習慣だけではなく、情報交換や交易・商談の社会的機能や、芸能や吸飲などの娯楽機能を担っていることが注目された。
[1] 生没年未詳。『支那探検録』『新天地』『日本名所客遊詩草』等の著書有り。
[2] 1872-1923。静岡県生。上海日清貿易研究所に入り、のち陸軍通訳、日清戦争後台湾総督府勤務。
[3] 1858-没年未詳。富山県生。好古堂という骨董商を経営。富国銀行専務取締役。東京美術俱楽部監査役。
[4] 1867-没年未詳、岡山生。帝大政治科卒業後、大蔵省追補、税務監督官を経て逓信参事官、文書課長、会計課長等を歴任、明治33、1900年清韓両国に派遣され、帰国後大阪郵便電信局長等の職に就く。
[5] 1874-1944.子爵前田利昭の長男として東京生。東大独文卒。1904年貴族院議員、加藤内閣の逓信相、清浦内閣の農商務相をつとめた。実業界では安田銀行、東武鉄道、川崎窯業、上毛鉄道の重役。
[6] 1895-1924。1914年渡華、『北支那』『北京週報』記者をつとめる。魯迅と度々会い日本に紹介した最初のひとり。『中国小説史略』を翻訳。
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