着物は単なる伝統衣装ではない。そこには、日本人が長い歴史の中で育んできた美意識や価値観、そして文化の記憶が織り込まれている。しかし今、その着物文化は、職人の高齢化や後継者不足、流通構造の歪みなど、さまざまな課題に直面している。
元海上自衛官という異色の経歴を持つ「京ごふく二十八」代表の原巨樹氏は、こうした現状に強い危機感を抱き、着物業界へと飛び込んだ。職人と顧客を直接つなぐ独自の経営モデルを築きながら、伝統を守るだけでなく、現代に生きる文化として着物の新たな可能性を模索し続けている。
―― 海上自衛隊の自衛官から伝統文化を担う呉服業界へ転身された経緯についてお聞かせください。また、どのような思いから、ご自身の和服ブランドを立ち上げられたのですか。
原 自衛官としての経験がなければ、呉服業界に転身することはなかったかもしれません。私は防衛大学校で4年間学び、その後、海上自衛隊に入りました。あるとき、5カ月にわたる遠洋練習航海で、護衛艦に乗り、メキシコやコロンビアなどを経てアルゼンチンへ向かいました。寄港するたびに、現地の人々は民族衣装を身にまとい、食事や音楽、舞踊など、自国の文化でもてなしてくれました。その航海の中で、国にとって文化的な誇りがいかに重要であるかを強く実感しました。
ところが、日本人である私自身、和服の着方も知らず、茶道についての知識もほとんどなく、日本の文化をうまく伝えることができませんでした。帰国後、「まずは和服から学ぼう」と思い、呉服店に足を運びました。しかし、同じ訪問着でも20万円のものから100万円のものまであり、その違いを店員に尋ねても、「良いものは高いですから」と返されるだけで、納得のいく答えは得られませんでした。
私は身長176㎝、体重59㎏。仕立てあがった着物を着ても胸がはだけてしまい、衿留めが必要な状態でした。呉服店に相談すると、一様に「もっと太らないとだめですよ!」と言われました。「メタボ」という言葉が流行り始めた頃で、「着物に合わせて太れ」というような考え方には違和感を覚えました。衣服とは本来、人に合わせて作られるべきものなのに、人が衣服に合わせて体型を変えるよう求められる――それは、到底納得できるものではありませんでした。
私は気になるとすぐに行動に移すタイプの人間です。こうした疑問を抱えたまま、7カ月をかけて全国の着物産地を巡り、各地の職人さんを訪ね歩きました。職人さんたちは、私の問いに対してわかりやすく説明をしてくれました。そうすると、私の疑念はさらに深まりました。なぜ呉服店の店員は基礎的な知識も十分にないまま、これほど高価な商品を販売しているのだろうか、と。そして最終的に、自分自身が呉服屋になって、この状況を変えていくしかないという結論に至ったのです。
―― 京都は日本の伝統文化と呉服産業の中心地である一方、独特の商習慣や人間関係が重んじられる土地でもあります。京都の呉服業界に参入する中で、どのような苦労がありましたか。また、伝統を重んじる職人や業界関係者との信頼関係は、どのように築いてこられましたか。
原 一番の問題は資金でした。退職後は収入も貯蓄もない中、7カ月をかけて全国の着物産地を訪ね歩きました。その後、ご縁をいただいた銀座の呉服店に5年4カ月働き、業界の知識を学びました。さらに地元の大分県に戻り、半年間アルバイトをして貯めた50万円を元手に2014年、「京ごふく二十八」を創業しました。
老舗を継ぐ同業者とは異なり、私には何の後ろ盾もありませんでした。外から来た人間が、長い歴史と伝統をもつ京都の呉服業界に入る以上、当然いくつもの壁がありました。ただ、私はそうした状況に直面した時、「自分は誰を手本にすべきか」を考えました。そこで思い浮かんだのが、幕末の志士たちです。
明治維新前後、志士たちは京都に集まり、命を落とす危険と隣り合わせの中で、国を変えるために奔走していました。それに比べれば、私が京都で直面したのは、商習慣や人間関係の壁にすぎません。命を狙われたわけでも、面と向かって罵倒されたわけでもない。志士たちの境遇に比べれば、取るに足らないものだと思って乗り越えてきました。
むしろ、私にとって衝撃だったのは、各地で目にした業界の現状でした。戦後の沖縄では、米軍が捨てた麻袋を使い、割れたレコードをヘラ代わりにして、紅型の染色を続けたといいます。食べることにも困る時代の中で、先人たちがそうまでして染織文化を守り続けてきた。その文化を、これだけ豊かになった今の日本で失ってしまうのは日本の恥だと思いました。私は悔しさのあまり、涙したこともありました。
私は間違いなく、世界中で一番「呉服屋になりたい」と思っていた人間だったと思います。業界に新しい風を吹き込み、着物の製作技術を次の世代へつないでいきたい。その一心でここまでやってきました。
着物産地を巡った7カ月間、移動のほとんど夜行バスでした。ベッドで眠れたのは週に一度という時もありました。そうした日々の中で、全国各地の職人さんたちと少しづつ関係を築いていきました。彼らの多くは70代、80代で、後継者はほとんどいません。理由は単純です。生活していけるだけの収入を得られないからです。時給に換算すると、200円程度にしかならない人も少なくありません。
新潟で出会ったある高齢の女性職人は、時給にしてわずか50円ほどでした。ところが、その方が作った物は、呉服店では200万円以上で販売されていたのです。その原因は、職人の手を離れた後、地元の卸、京都の卸など、複数の問屋を経由する呉服業界特有の流通構造と慣習にありました。
私は、不要な流通を減らし、高品質な着物を適正価格で消費者へ直接届けるべきだと考えました。ですから私は、職人に対して値引き交渉を一切しません。提示された金額をそのまま支払います。たとえ資金繰りが厳しくても、職人への支払いを最優先にしています。こうした考えと実践が、職人の皆さんの理解と信頼につながっているのだと思います。
―― 「京ごふく二十八」では在庫を持たず、受注生産を中心とした販売を行っているそうですね。
原 はい。実際の販売現場に立つ中で、従来の呉服販売には大きな課題があると感じていました。たとえば店頭に多くの着物が並んでいれば、一見して選択肢は豊富に見えますが、年齢や好み、肌映りなどを考慮すると、その中から無理に選ぶか、品質面で妥協するケースも少なくありません。私は、そうした販売方法では、お客様に本当の意味で満足していただくことは難しいと考えています。
本来、着物づくりは、お客様の要望から始まるべきであり、先に商品を作って買い手を探すべきではありません。そこで私は、受注生産を中心としたビジネスモデルを構築しました。まず、お客様と十分にコミュニケーションを取り、好みや用途に応じてデザインや仕様を決め、その上で最適な職人に製作を依頼します。このモデルは、現在の市場環境にも合致していると感じています。1970年代から80年代にかけて、約1兆8000億円規模あった着物市場も、現在では2000億円を下回っています。消費者のニーズも、高品質なものを求める層と、価格重視の層に二極化しています。私が選択したのは前者です。
具体的なサービス面でも、従来の呉服店とは異なる取り組みを行っています。まず重視しているのは、品質と価格に対する安心感です。当店の着物はすべて職人による直接製作のため、「どの職人がどのような工程で仕上げたのか」を明確に説明することができます。
次に、着物のしきたりやコーディネートに関するサポートです。着物には独自のしきたりやルールがあり、敷居が高いと感じる方も少なくありません。しかも、そのルールは時代とともに変化する部分もあるため、着物慣れした方でも戸惑うことがあります。私たちは日頃から情報収集を行い、お客様がお困りの時にはご相談いただける存在でありたい、と考えています。
さらに大切にしているのが、着物に込められた価値の「見える化」です。たとえば京友禅は、15~20もの工程を経て、複数の職人が分業で仕上げますが、消費者はその過程を見る機会はほとんどありません。そこで私たちは、写真や解説を通じて、お客様の着物がどのように作られているのかを丁寧にお伝えしています。
こうした販売モデルは、職人の方々との継続的なコミュニケーションと信頼関係がなければ成り立ちません。京都でも、同じことのできる呉服店はほとんどないと思います。
―― 伝統的な呉服店を経営される一方で、「Play KIMONO」シリーズなど、着物の新しい形にも挑戦されています。一般的なアパレルブランドではなく、呉服屋だからこそできると思いますが、こうした取り組みには、どのような思いがあるのでしょうか。
原 根本にあるのは、着物文化の衰退に対する強い危機感です。実際、アンケート取ると、「着物を着てみたい」と考えている日本人は少なくありません。しかし、いざ着ようとすると、着付けが分からない、手入れや洗濯方法が難しいなどといった問題に直面し、結果として、手軽に購入できる洋服を選ぶことになります。
「洋服」とは、言い換えれば西洋の衣服です。現在、日本人の99.9%は西洋の服だけを着て生活しています。多くの人にとっては当たり前の光景かもしれませんが、私は強い違和感を抱いています。そこで2022年に一つの試みとして、合成繊維を用いた着物を開発しました。洗濯が可能で、着付けを覚える必要もありません。和服を身近に感じてもらうために、ハードルを下げようと考えたのです。
しかし、それでも大きな変化は生まれませんでした。着物の形をしている以上、動きにくさや着用時の煩雑さは残ります。私は次第に、「形そのものを変えなければ、着物文化は残らないのではないか」と考えるようになりました。それが「Play KIMONO」を始めた最大の理由です。
その過程で、私は「着物とは何か」という本質的な問いに向き合うことになりました。たとえば、着物の下着とされている長襦袢(ながじゅばん)は、ポルトガル語の下着「gibão(ジバォン)」に由来するとされています。また、着物そのものも、起源をたどれば奈良時代に唐代の服飾文化の影響を受けて生まれたもので、右前の合わせ方などもそこから来ています。それでも今日、着物は日本の民族衣装として認識されています。つまり、着物とは固定された形ではなく、歴史の中で変化を重ねながら受け継がれてきた文化なのです。だからこそ、その革新もまた、着物文化を深く理解した者によって行われるべきだと考えています。
アパレル業界の競争は、本質的には西洋のシステムの中で行われています。その結果、社会全体が絶えず西洋の価値観に近づいていく。しかし私は、日本社会の過度な西洋化に強い違和感を抱いています。たとえ着物の形を維持するだけであっても、それは文化の継承につながる。着物の本質的な良さを残しながら、もっとカジュアルで自由に楽しめる形に変えていきたいと思っています。
―― 御社のウェブサイトには、コラムが数多く掲載されています。経営者としての視点に加え、日本の伝統文化に対する理解が印象的です。こうした発信には、どのような思いがありますか。
原 この業界では、美意識だけでなく、「至誠」が大切だと考えています。誠実であろうとすると、そこには自然と美しさが宿ります。日本には、長い時間をかけて育まれてきた独自の美学があります。たとえば、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』は、私も愛読している一冊です。本来、日本の美意識は時間をかけて体得するものですが、現代で伝える以上、今の人にも分かりやすい表現にする必要があります。
私は、既存の言葉を繰り返すのではなく、自分の言葉で語ることを大切にしています。また、誰かを傷つける可能性があるなら、あえて語りません。表現もまた、「至誠」に基づくべきだと考えています。こうした価値観は、経営にも通じています。どの国でも、金儲けだけを目的にする企業が、本当の意味で尊敬されることはないでしょう。
私にとって呉服業とは、匠の技を次の世代へつないでいく仕事です。そのためには、製品を売るだけでは不十分です。生産、流通、販売、さらに、お客様にどう着物を楽しんでもらうかまで含め、業界全体を考える必要があります。着物に触れたお客様が喜び、その喜びが職人へ還元される――私は、そうした循環をつくりたいと思っています。
この道を歩み始めて12年になりますが、まだ道半ばです。ただ、職人の方々とともに基盤を築いてきた手応えはあります。今後も事業を発展させ、業界の中で役割を果たしていきたい。それが、私の生きがいでもあります。
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