小泉武夫 東京農業大学名誉教授・発酵学者
日中発酵茶礼賛

先ごろ、本誌編集部は、東京農業大学名誉教授で発酵学者の小泉武夫氏を研究室に訪ねた。扉を開けると、84歳の小泉氏は満面の笑みで迎えてくださった。本誌記者は、自ら仕立てた熟成六堡茶と桂花六堡茶を手渡し、和やかな雰囲気の中で対談が始まった。

―― 小泉先生、本日はご多忙の中、『日中茶界』の取材をお引きお受けいただき、誠にありがとうございます。先生は日本を代表する発酵学者として知られ、多くの著書も執筆されています。どのようなきっかけで中国の発酵茶に関心をもたれ、研究を続けてこられたのでしょうか。

小泉 このたびは取材のお話をいただき、日中の愛茶家の皆さまと経験や思いを共有できることを大変うれしく思います。正直に申し上げると、中国の発酵茶について、私はまだ十分に理解できているわけではありませんが、早い時期から関心を持ち続けてきました。1980年代、私はたびたび中国を訪れ、各地の特色ある食品を調査し、後に『中国怪食紀行』という一冊の本にまとめました。

発酵茶では、広西の六堡茶や、雲南の竹筒茶が強く印象に残っています。渋味の強いお茶は胃を刺激し、不快感を覚えることがあります。そうした刺激を和らげるために、微生物による発酵を利用し、口当たりをまろやかにした発酵茶が生み出されたのです。

当時、雲南で目にした竹筒茶の製法は実に独特なものでした。茶師はまず、茶葉を鍋に入れて熱湯で煮立たせます。そして、それを竹筒に詰め、隙間がなくなるまで棒で何度も突き固めて密閉状態にします。すると、乳酸菌などの嫌気性微生物が繁殖し、発酵が進むのです。

その後、竹筒の口を泥で丁寧に封じ、深さ約60センチの土中に埋めます。そして土をかぶせたまま1~2年ほど寝かせ、十分に発酵したところで掘り出します。埋める前は鮮やかな緑色だった茶葉は、取り出す頃には琥珀色へと変化しています。こうして土中で発酵した茶葉は刺激成分が分解され、まったく異なる味わいのお茶になるのです。

私も思い切って飲んでみました。すると、豊かな茶の香りが口いっぱいに広がり、頰まで温かくなるような心地よさに包まれました。本当に素晴らしい体験でした。

―― 発酵茶を日常的に飲むことで、どのような健康効果が期待できるのでしょうか。

小泉 六堡茶やプーアル熟茶に限らず、発酵食品が一般的に体に良いとされています。私はよく「発酵食品は栄養の宝庫である」と話しています。例えば、同じ大豆でも、煮大豆より納豆のほうが栄養価は高くなります。これは発酵の過程で微生物が働き、さまざまな栄養成分が生み出されるためです。ここでは、分かりやすい例として甘酒を取り上げてみましょう。

江戸時代後期の嘉永6年(1853年)に刊行された『守貞謾稿』という書物があります。著者の喜田川守貞は絵師であり、漫画風に当時の庶民生活や街の風景を細やかに記録しました。そこには甘酒売りに関する記述があります。「江戸、京都、大阪では夏になると市中で甘酒が売られる。一杯四文である」と。では、なぜ人々は夏に甘酒を飲んだのでしょうか。

『守貞謾稿』からは当時の厳しい生活環境がうかがえます。江戸後期の庶民の平均寿命は約46歳。女性は13~15歳ほどで嫁ぎ、乳幼児の死亡率も高い時代でした。さらに、天保年間(1830~1844年)の寺院の墓碑を調べると、7月から9月にかけて死亡者が著しく増えていたことが分かります。

当時は酷暑に加え、下水道も十分に整備されておらず、蚊も多く発生していました。夜になっても蒸し暑さは続き、人々の体力は大きく消耗しました。そのため、高齢者や身体の弱い人々が夏を越せずに亡くなることも少なくなかったのです。

甘酒は、米と麹を原料にしてつくられます。米に含まれるデンプンは、麹菌が生み出す糖化酵素によってブドウ糖に分解されます。また、タンパク質も酵素の働きによって分解され、多くのアミノ酸が生成されます。実際に分析すると、甘酒にはブドウ糖をはじめ、さまざまなアミノ酸や豊富なビタミンB群が含まれていることが分かります。これらの有用な成分は、いずれも発酵の過程で生み出されたものです。

当時の人びとは、一杯の甘酒で疲労を回復し、失われた体力を補っていました。鰻のような高価な食べ物を口にすることが難しかった庶民にとって、一杯四文の甘酒は手軽な栄養補給源だったのです。甘酒が「夏の薬」と呼ばれてきたのには、こうした科学的な理由があります。ここからも、発酵飲料が持つ力の大きさをうかがうことができるでしょう。

私は今年84歳になりますが、よく「お元気ですね」と言われます。そのたびに「発酵食品のおかげですよ」と答えています。そうした思いもあって、『発酵食品礼讃』という本も執筆しました。

発酵茶についても、さまざまな効用が期待できます。中華料理は油を多く使いますが、その豊かな油使いこそが中華料理の魅力でもあります。そして中国の食文化において、お茶は極めて重要な役割を担っています。良質なお茶を飲むと、口の中がさっぱりします。食後に一杯いただけば、心地よい香りが口中に広がり、爽やかな気分になるのです。

―― 茶葉の渥堆発酵の過程を見た消費者の中には、衛生面を心配する声もあります。人体に有害な菌が発生することはないのでしょうか。

小泉 発酵茶や発酵食品の衛生面について、過度に心配する必要はありません。発酵の過程は見た目にはあまり清潔に見えないかもしれませんが、それはあくまでも表面的な印象です。

微生物の世界では、ある特定の微生物が適した環境の中で十分に増殖すると、他の微生物の侵入や繁殖を抑え、自らの生存領域を守ろうとします。これを「拮抗作用(Antagonism)」と呼びます。

この現象は1876年にティンダルによって初めて科学的に説明されました。さらに翌1877年にはパスツールが研究を発展させ、その仕組みは20世紀に入ってから本格的に解明されていきました。

日本の細菌学者・斎藤賢道氏は1907年、麹菌が発酵の過程で結核菌やさまざまな病原菌の増殖を抑える物質を生み出すことを明らかにしました。その後、1911年に薮田貞治郎氏がこの物質を「コウジ酸」と命名しました。

1928年には、イギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミングが、培養中のブドウ球菌の周囲でアオカビが細菌を死滅させていることを発見しました。この観察から、カビが細菌の増殖を抑える物質を生み出していることが分かり、その物質は後に「ペニシリン」と名付けられました。この物質には強い抗菌作用があり、多くの細菌の増殖を抑制します。その後、多くの微生物学者がこうした拮抗物質、すなわち抗生物質の研究を進め、人類の医療と福祉の発展に大きく貢献しました。

自然界では、発酵菌と腐敗菌が生存をかけて激しく闘っています。発酵菌が優勢になると、人類に有益な抗菌物質が生み出されます。つまり、発酵が順調に進んだということは、発酵菌が腐敗菌との競争に打ち勝ったことを意味します。だからこそ、発酵食品は衛生的で信頼性が高く、安心して口にできる食品と言えるでしょう。

 

―― この10年ほど、中国ではプーアル熟茶や六堡茶などの発酵茶が人気を集めており、その勢いは緑茶や紅茶をしのぐほどです。現在、梧州六堡茶の年間生産量は4万トンを超えています。日本における発酵茶の認知度や人気については、どのようにご覧になっていますか。

小泉 実のところ、日本では発酵茶に対する認知度はまだかなり低いのが現状です。日本の伝統茶の一つに、高知県で生産される「碁石茶」という発酵茶がありますが、その生産量はごくわずかで、日本全体の茶葉生産量から見ればほんの微々たるものです。それほど希少なお茶なのです。そのため、中国のウーロン茶や紅茶と比べると、六堡茶やプーアル茶の認知度はまだ高いとは言えません。

今日皆さんがお持ちくださった六堡茶は、口に含んだ瞬間から実に心地よく、熟成香もはっきりと感じられました。飲み込んだ後、胃や腸の中の油脂がゆっくり溶けていくような感覚さえありました。現在、日本人の食生活は大きく変化し、油の摂取量は以前の約3倍になっています。中国の良質な発酵茶には、口の中の油っぽさを和らげ、食後をすっきりさせる働きがあります。私は、六堡茶をはじめとする発酵茶は、日本でも必ず人気が高まっていくと確信しています。

―― 本日先生にお淹れしたのは、2015年産の香り豊かな六堡茶です。お気に召していただけて大変うれしく思います。中国と日本の発酵茶にはどのような共通点や違いがあるのでしょうか。

小泉 中国の六堡茶も日本の碁石茶も、ともに発酵茶に属しますが、中国の分類法に当てはめれば、いずれも黒茶に分類されるでしょう。しかし、製造工程や発酵に関わる微生物に大きな違いがあります。中国黒茶が主に糸状菌(カビ)の働きによって発酵するのに対し、碁石茶は主に乳酸菌の働きによって発行します。また、独自の二段階微生物発酵を採用している点も特徴です。

碁石茶の製法を簡単にご紹介しましょう。毎年6月から7月にかけて、茶葉が最も厚くなる時期に、鎌を使って枝ごと刈り取ります。碁石茶は原料の厚みと風味を保つため、若芽は使用しません。この点は煎茶と大きく異なります。

茶師は、収穫した茶葉を木製の蒸し桶に入れ、強火で1時間半から2時間ほど蒸します。この工程で殺青を行い、葉をやわらかくするとともに、渋味を和らげ、その後の微生物発酵に適した環境を整えます。蒸し上がった茶葉は枝を取り除いて葉だけを残します。

続いて、むしろの上に広げて高さ40~70㎝ほどに積み上げ、上からむしろをかぶせて保湿しながら、1週間ほど室内で寝かせます。この間、大気中の天然の糸状菌(カビ)が繁殖して嫌気性発酵が進みます。茶葉は次第にやわらかくなり、独特の香りが生まれます。職人は毎日、茶堆に手を入れて温度を確かめながら、発酵の進み具合を見極めていきます。

第一次発酵が終わると、茶葉を杉の樽に移し、茶葉を蒸した際に採取した茶汁を注ぎ込みます。そして足で何度も踏み固めて葉の間の空気を抜き、最後に重石を載せて密封します。3日ほどすると発酵が盛んになり、発生したガスによって重石が10センチほど持ち上げることもあります。

樽から溢れ出る発酵液の状態も、発酵の進み具合を見極める目安になります。この工程では乳酸菌や酢酸菌などの微生物が大量に繁殖し、碁石茶特有の酸味が生まれます。

発酵は15日ほど続きます。その後、茶師は発酵した茶葉の塊を取り出して3~センチ角に切り分け、再び樽に戻して踏み固め、熟成をさらに進めます。こうして風味は一層まろやかになり、香りにも深みが加わります。

最後に茶葉の塊をむしろに広げて天日干しします。十分に硬くなったところで竹籠に入れて軽く揺すり、碁石のような丸みを帯びた形状になれば碁石茶の完成です。1杯(150ミリリットル)の碁石茶には、30~40億個の乳酸菌が含まれているとされ、脂肪の分解を助けるほか、便通の改善や二日酔いの軽減にも効果があるといわれています

 

―― 中国の六堡茶には、陳香や薬香、発酵香など独特の香りがあります。こうした特徴的な香りが、六堡茶や中国黒茶を日本で普及させる際の妨げになることはありませんか。 

小泉 私はまったく心配していません。発酵食品の香りや味わいには、もともと独特の個性があります。納豆、近江の鮒寿司、新島の島寿司などは、強い香りで知られていますが、それでも多くの愛好家がいます。

発酵の過程では、必ずその食品ならではの香気成分が生まれます。例えば納豆は、煮た大豆を納豆菌(Bacillus natto)によって発酵させた食品です。発行によって生成される有機酸(プロピオン酸、酪酸、吉草酸、カプロン酸、カプリル酸)や、納豆特有のテトラメチルピラジンなどが組み合わさり、あの独特の風味を生み出しています。

また、生乳とチーズ、生の豚肉とハムも、発酵の前後では味わいが大きく異なります。発酵食品特有の香りは、その食品の個性であり、価値の一部でもあります。もし発酵食品から香りを取り除いてしまえば、食生活そのものがずいぶん味気ないものになってしまうでしょう。

日本ではお茶を香りによって分類する文化はありませんでした。一方、中国では香りが非常に重視されています。例えば、先ほどお話しした六堡茶の陳香、薬香、糯米香、発酵香などは、まさに中国茶ならではの魅力と言えるでしょう。私は現在、鹿児島大学、別府大学、石川県立大学、福島大学、宮城大学などで客員教授を務めていますが、学生たちが最も関心を示すのは中国茶の香りです。授業でも、中国茶の香りに関する質問を数多く受けます。中国茶が日本の消費者を最も惹きつける要素の一つは、やはり香りではないでしょうか。六堡茶を日本で普及させるうえでも、その豊かな香りの魅力を積極的に伝えていくべきだと思います。

―― 本誌はこれまで一貫して、日中の茶文化の理解と交流の促進に努めてまいりました。そこで発酵茶、とりわけ六堡茶を日本で普及させるためのアドバイスをいただければと思います。

小泉 先ほど申し上げたように、まず大切なのは、日本の消費者に六堡茶特有の香りの魅力を積極的に伝えることです。

さらに言えば、関西地方、とりわけ大阪から普及を始めるのも一つの方法だと思います。日本の伝統的な発酵茶である碁石茶の産地は高知県で、大阪から比較的近く、現在も大阪には碁石茶を販売している店や、試飲できる飲食店が少なくありません。そのため、熟成香をもつ発酵茶を受け入れやすい土壌があるのです。

中国の六堡茶にはさまざまな種類があり、香りや味わいも実に多彩です。一方、碁石茶には独特の酸味があります。そのため、やや酸味を帯びた発酵茶を選べば、日本人にも受け入れられやすいかもしれません。

また、日本市場向けに発酵茶を一、二種類開発することも十分考えられるでしょう。製法を工夫し、日本人が好む酸味を引き出すことができれば、中国の発酵茶は日本市場でも十分に受け入れられるはずです。

 

―― 最後にお伺いします。先生が最もお好きな中国茶は何でしょうか。その理由もあわせてお聞かせください。

小泉 私は中国茶なら何でも好きです。発酵を経た六堡茶も好きですし、発酵していない新鮮な緑茶も好きです。それぞれに異なる魅力があり、優劣をつけることはできません。この度の取材を通して、発酵茶についての私なりの経験や考察を、日中の愛茶家の皆さまと共有できたなら、これ以上の喜びはありません。