宋代茶書の名著――『大観茶論』

『大観茶論』は原題を『茶論』といい、北宋の皇帝・徽宗(趙佶)が著したとされる。熊蕃の『宣和北苑貢茶録』には、「大観年間の初めに、今上(徽宗)が自ら『茶論』二十篇を著した」と記されている。南宋・晁公武の『郡斎読書志』にも、「『聖宋茶論』一巻、右は徽宗の御製なり」と著録されている。

その後、明代初期に陶宗儀が『説郛』に本書を収録した際、書名を『大観茶論』に改めた。この点について万国鼎は、「『説郛』は明代に刊行されたため、編纂した当時の明の年号を冠して『大観茶論』としたのである」と説明している。

さらに本書は、清代・陳夢雷の『古今図書集成』にも収録されており、書名はそのまま継承されている。現在刊行されている本書の解説本や訳注本は、いずれも『大観茶論』の名称を採用している。

『大観茶論』の著者である北宋第八代皇帝・徽宗は、書画や文学など多方面で傑出した才能を発揮した人物として知られる。徽宗が考案した「痩金体」は、細く力強い筆致を特徴とする独特の書風で、趙孟頫はこれを「骨格がしっかりしていて線が強靭であり、風雅な趣がただよっている」と評している。徽宗は茶も嗜んだ。宴席では自ら客人のために茶を点てたとの記述がある。

「全真殿で茶を賜ったが、皇帝自ら湯を打ち注ぎ、茶碗一面に白い乳花のような泡が湧き立った。臣下等は恐れ多く、前に進み出て申し上げた。『陛下は君主と臣下の区別をなさらず、わが者のためにこの茶を点ててくださいました。どうして口をつけられましょうか』と、深く頭を下げた。皇帝は『少し休むがよい』と仰せになり、瑶林殿へ出御された」。

『宣和遺事』にも「惠山泉と建渓の兔毫茶碗を用いて、新たに献上された太平嘉瑞茶を点て、蔡京に賜った」との記述がある。徽宗は茶を題材にした詩も残している。『宮詞』に次のように詠んでいる。

「春の初めに建渓の新芽を選り分け、書斎に携え闘茶に励む。点てたばかりの茶は優劣などつけようがなく、ただ茶碗を手に捧げ持ち、瓊花のような泡立ちを見比べるのである」。

『大観茶論』は、徽宗の茶に対する認識や理解を集約した著作である。皇帝であり芸術家でもあった徽宗によって、宋代の茶書は新たな境地へと高められた。そして宋代の茶文化は、中国茶道史における一つの頂点を築いたのである。

『大観茶論』が収録する叢書をたどるかぎり、その版本体系はそれほど複雑ではない。万国鼎は『茶書二十九種題録』において、「刊本として確認できるのは『説郛』のみであり、『古今図書集成・食貨典』にも同書が収められている」と述べている。

ただし、『説郛』には複数の異なる版本が存在する。程光裕は、宛委山堂本、明弘治刊本、藍格旧抄本、商務印書館本(涵芬楼本)を挙げているが、現在、『大観茶論』を知るうえで拠り所としているのは、主に涵芬楼本と宛委山堂本である。後世における『大観茶論』の分析・研究成果として、鄭培凱・朱自振共著『中国歴代茶書彙編校注本』、方健著『中国茶書全集校証』、沈冬梅・李涓共著『大観茶論』、王建栄著『大観茶論―尋常問道』、周重林著『宋徽宗的茶事』、さらに日本の学者・高橋忠彦氏による『「大観茶論」の研究――校勘・注釈・翻訳』などが挙げられる。

また、葉国盛著『武夷茶文献輯校』にも『大観茶論』が収録されている。同書では、先行研究ではあまり注目されていなかった『説郛』明・弘治十三年(1500年)抄本や、明代の鈕氏・世学楼抄本を用いて新たに校正がなされた。とりわけ「外焙」の章では、「圭脔亦相等。燷黄出膏、色澤亦腴潤。範必稠実而不軽、圧必留膏而味必不淡、以是或以為正」の36文字を訂補し文意を明確にしたことで、『大観茶論』を原形に近い形に復元した。

宋代には多くの茶書が著されたが、その多くは建州・北苑の貢茶に関するものである。代表的なものとして、蔡襄著『茶録』、宋子安著『東渓試茶録』、黄儒著『品茶要録』、熊蕃著『宣和北苑貢茶録』、趙汝砺著『北苑別録』などが挙げられる。これらの典籍は、それぞれ異なる視点から宋代の茶業を記録している。茶器や喫茶法を論じたもの、産地や銘柄を論じたもの、製茶工程を論じたものなど、その内容は多岐にわたる。諸書をあわせて読むことで、宋代の茶文化史の全体像が浮かび上がってくる。

『大観茶論』は、皇帝自らの視点で記された茶書であり、宋代の茶文化の全体像とその要諦を描き出している。構成は序文に続き「地産」「天時」「採擇」「蒸壓」「製造」「鑑辨」「白茶」「羅碾」「盞」「筅」「瓶」「杓」「水」「點」「味」「香」「色」「蔵焙」「品名」「外焙」の二十章から成り、当時の茶葉の産地、摘採・製造法、点て方、鑑別等幅広く取り上げている。

作者は冒頭で茶の特異性を次のように述べている。「茶というものは、瓯・閩の地の秀でた気をあまねく具え、山川の霊気を宿し、胸中のわだかまりや滞りを祓い洗い清めるものであり、その妙味は、凡人や子どもが容易に理解できるものではない。また、その淡泊で簡素、高雅で静謐な趣は、慌ただしい日常の中で味わえるものでもない」。後の諸篇では、採摘の精緻さ、製茶技術の巧みさ、鑑別の精密さ、さらには、点茶の妙を論じている。

「点茶」の章は、『大観茶論』の精華とも言うべき部分であり、その筆致はとりわけ生き生きとして秀逸である。

まず、蔡襄の『茶録』における「点茶」の記述を見ると、「茶を一さじ取り、まず湯を注いで均一に溶き、さらに湯を注ぎ足して円を描くように茶筅でかき立てる。湯が茶碗の四分ほどに達したところで止める。表面の色が鮮やかな白色を帯び、茶碗の縁に水跡が残らなければ最上である」と、わずか数行にとどまっている。

これが徽宗の筆にかかると、一つひとつの動作がまるでスローモーションの分解映像のように細やかに描かれている。例えば二煎目については、「茶面に湯を一周させるように、素早く注いでは素早く止める。茶面を乱さず、茶筅で勢いよくかき混ぜると、しだいに色つやが増し、珠玉のような泡があらわれる」とある。湯の注ぎ方や茶筅の使い方は一服ごとに異なり、徽宗が点茶の玄人にして名手であったことがうかがえる。まさしく蘇軾のいう「心に得たものが、そのまま手の動きにあらわれる」が如くの点茶三昧の妙手なのである。

徽宗はさらに、「まばらな星や明るい月」「珠玉が散りばめられた」「粒状のもよう」「雲霧が次第に立ちのぼる」「ほのかに霞み、凝り積もった雪のような白さ」「乳白色の霧のように湧き上がり」といった具合に、自然のイメージを用いて、点茶の際に現れる茶湯の変化を一つひとつ鮮やかに描写している。

これは陸羽の煎茶道を受け継ぐものである。陸羽は、茶の湯面に現れる文様や泡を、なつめの花のひらひらと舞うさま、あおあおと水草が芽ぐむ気配、うろこ雲のように連なる影、青苔、菊の花、積もる雪などに喩えている。日本の茶人・岡倉天心は『茶の本』で、宋代の点茶を「ロマン派」と評したが、まさにその通りである。

宋代は政治・経済が繁栄した時代であり、それに伴い茶産業も大きく発展した。上は皇帝・徽宗が茶書を著して茶事を重んじ、下は庶民が茶園で闘茶(茶の品質や点茶の技術を競い合う遊び)を楽しんだ。また、文人は茶の真の香り、色、味わいを愛し、茶にまつわる多くの詩歌や絵画を生み出した。こうして宋代の茶文化は独自の風格を成し、その美意識と芸術性はひときわ高い境地に達したのである。

中国に渡った栄西禅師をはじめとする日本の僧たちは、宋の点茶技法を日本へ持ち帰り、それを学び取り入れたことが、今日の日本の抹茶道諸流派の源流となった。日本の茶道の四規である「和敬清寂」と、『大観茶論』に説かれる「致清導和」は一脈相通じるものがある。