嵯峨天皇と弘仁茶風

茶を愛した君主といえば、まず思い浮かぶのは宋の徽宗皇帝と清の乾隆帝であろう。『大観茶論』が徽宗自身の著作であるとの確証はないものの、彼が茶をこよなく愛していたことはよく知られている。一方、乾隆帝は数多くの茶詩を残しただけでなく、「君不可一日无茶(君主たる者、一日たりとも茶を欠かしてはならぬ)」という言葉でも知られる。この二人の皇帝の存在は、中国茶文化の発展に大きな影響を与えた。北宋後期と乾隆帝の治世は、中国茶文化が大きく花開いた黄金期であったと言えるだろう。

日本に目を向けると、平安時代の嵯峨天皇もまた、茶を愛好した君主の一人である。嵯峨天皇の後押しによって、日本で最初に喫茶(中国から伝わった茶を飲用し効用を嗜む習慣や作法)の流行が生まれた。しかし、その流行は長くは続かず、茶の文化が再び盛んになるのは鎌倉時代を待たなければならなかった。現在、日本では栄西禅師が「茶祖」として広く知られているが、それ以前に茶の普及を後押しした嵯峨天皇について語られる機会は決して多くない。

嵯峨天皇は茶を愛しただけでなく、『夏日于左大将藤原朝臣冬嗣閑居院賦得茶字(夏日、左大将藤原朝臣冬嗣の閑居院にて茶の字を得る)』という優れた漢詩も残している。その全文を紹介したい。

避暑時来閑院裏、池亭一把釣魚竿。

暑さを避けてこの閑居を訪れると、
池のほとりの亭には一本の釣り竿が置かれている。

回塘柳翠夕陽暗、曲岸松声炎節寒。

入り江の柳は青々と茂り、夕陽の光を和らげる。
曲がりくねった岸辺には松風が響き、盛夏でありながら涼しさを感じさせる。

吟詩不厭搗香茗、乗興偏宜聴雅弾。

詩を吟じながら香り高い茶を挽いても飽きることはなく、
興が湧けば、琴の優雅な調べに耳を傾けるのもまた格別である。

暫対清泉滌煩慮、況乎寂寞日成歓。

しばし清泉に向かって心の煩いを洗い流せば、
この静寂の中では、閑かな日々さえ喜びへと変わるのである。

日本古代の天皇である嵯峨天皇が、これほど見事な漢詩を残していたことは、現代の私たちには意外に感じられるかもしれない。実際、嵯峨天皇は優れた政治家であっただけでなく、深い学識を備えた漢学者であり、詩人でもあった。文学を愛し、とりわけ唐代の文化を深く傾倒していたことで知られている。

周知のとおり、唐代は唐詩文化が最も隆盛を極めた時代であった。嵯峨天皇が即位した(809年)当時、唐を代表する多くの詩人たちがなお健在であった。例えば、柳宗元は36歳、劉禹錫と白居易はともに37歳であった。唐詩が花開いた時代の息吹は、海を隔てた日本にも届いていた。嵯峨天皇もまた、その華やかな詩風に深い影響を受けた一人であった。

嵯峨天皇の父は、かの有名な桓武天皇である。桓武天皇が広く知られているのは、794年に都を平安京へ遷したことであろう。平安京は現在の京都にあたり、日本は近代の明治維新まで、長きにわたって京都を都としてきた。千年の都・京都の礎を築いたのが、まさに桓武天皇であった。

そして809年(大同4年)、平安京遷都から15年後、桓武天皇の皇子である嵯峨天皇が即位する。この年は、唐では憲宗の元和4年にあたる。

嵯峨天皇は、天皇・上皇としての30年以上に及ぶ時代に、『凌雲集』(814年)、『文華秀麗集』(818年)、『経国集』(827年)という日本漢詩史を代表する三大勅撰漢詩集の編纂を相次いで命じた。

また、嵯峨天皇自身も優れた漢詩人であった。『凌雲集』には22首、『文華秀麗集』には29首、『経国集』には30首の作品が収められている。五言律詩、七言律詩、七言古詩、七言絶句、五言絶句、雑言詩など、多様な詩形を自在に詠みこなしていたのである。

同時に、嵯峨天皇は優れた能書家としても知られている。後世には、空海、橘逸勢とともに「平安三筆」の一人に数えられた。

なかでも空海と橘逸勢は、ともに遣唐使船で唐へ渡り、仏法や文化を学んだ人物である。空海は唐滞在中、著名な書家・韓方明に師事し、『授筆要説』に記された五つの筆法を学んだと伝えられている。その卓越した書の技量から、「五筆和尚」とも称された。

帰国後、空海は欧陽詢の真跡一巻と、王羲之の『蘭亭序』の拓本一巻を嵯峨天皇に献上した。嵯峨天皇自身は唐へ渡る機会こそなかったものの、中国最高峰の書法に直接触れることができたのである。こうした中国文化の薫陶を受けた嵯峨天皇は、詩文に秀で、書にも精通した、平安時代を代表する漢学者の一人であった。

嵯峨天皇筆 光定戒牒

注目すべきは、嵯峨天皇が漢文化を積極的に学んでいた時代が、『茶経』の成立と重なり、中国で最初の茶文化の隆盛期を迎えていたことである。唐代の茶文化は、最澄、空海、永忠らを通じて日本にもたらされ、やがて嵯峨天皇にも伝えられた。

嵯峨天皇をはじめとする平安貴族たちにとって、茶を飲むことは、当時最も進んだ文明であった唐の文化を取り入れることでもあった。たとえるなら、改革開放後の中国において、コーラやコーヒーが新しい価値観や西洋文化への憧れを象徴したのと、どこか通じるものがある。

嵯峨天皇は生涯一度も唐の地を踏んだことがなかった。それにもかかわらず、なぜ唐の茶文化の魅力を深く理解することができたのだろうか。その貴重な「茶縁」を結んだ人物こそ、永忠和尚である。

永忠和尚は宝亀元年(770年)、遣唐使船に乗って唐へ渡り、長安の西明寺に住した。西明寺は名高い仏教寺院であると同時に、日本からの留学僧が中国語や中国の風俗・習慣を学ぶ場でもあった。彼らはここで基礎的な学習を積み、その後の本格的な修行に備えたのである。当時の西明寺は、日本人僧侶にとって語学学校のような役割を果たしていた。

現代でも海外留学の際には、まず語学学校で学ぶことが少なくない。永忠も当初はそうした学びのために西明寺に入ったが、修学を終えた後も寺にとどまり、日本から訪れる求法僧たちの指導や支援に携わった。こうして永忠は、実に30年もの長きにわたって西明寺で生活したのである。

その30年に及ぶ滞在中、永忠が茶を飲んでいたことは、ほぼ間違いないと考えられる。それも、かなりの量の茶を口にしていた可能性が高い。その根拠は少なくとも二つある。

第一に、永忠が唐で暮らしていた時代、茶聖と称される陸羽はまだ存命であった。両者が実際に面会したという記録は残されていない。しかし、唐で日増しに高まる喫茶の風潮を、永忠が身近に感じていたことは間違いないだろう。さらに推測を進めれば、永忠が『茶経』を読んでいた可能性も十分に考えられる。少なくとも年代的には、その仮説は成り立つ。

第二に、1985年、中国社会科学院考古研究所西安唐城工作隊が西明寺跡の発掘調査を行った際、出土品の中から唐代の茶碾が発見された。修復後、その台座には「西明寺 石荼碾」の六文字が刻まれていることが確認された。

ここでいう「荼」は「茶」の古い表記の一つである。唐代中期以前には、「荼」と「茶」が混用されることがあった。実際、沈没船「黒石号」から引き揚げられた唐代・長沙窯の茶碗にも、「荼盞子」の三文字が刻まれている。

また、西明寺遺跡から出土した石碾は、その形状が『茶経』「四之器」に記された茶具の説明とよく一致している。このことから、西明寺で発見された「石荼碾」は、実質的に茶葉を挽くための「石茶碾」であったと考えられている。唐代の西明寺では、日常的に茶事が行われていた可能性が極めて高い。そこで30年にわたり学び、働いた永忠和尚が、茶文化に深く親しんでいたことは想像に難くない。

永忠が日本へ帰国した時、すでに63歳になっていた。彼が持ち帰ったのは仏典だけではない。貴重な茶葉や茶の種子も携えていた。永忠はそれらを丹念に育て、10年の歳月を経てようやく茶の収穫に成功した。

収穫された茶は品質が優れていたため、永忠は天皇に献上することを考えた。『類聚国史』「帝王部」には、弘仁6年(815年)4月の出来事として、次のような記録が残されている。

この年、嵯峨天皇は近江国の韓崎(から さき)へ行幸し、その途中で崇福寺を訪れた。大僧都永忠や護命らは、多くの僧とともに寺門の外で天皇を迎えた。嵯峨天皇は車駕を降りて堂内で礼仏を行った後、梵釈寺へ向かい、そこで詩を詠んだという。皇太弟や群臣もこれに唱和したと伝えられる。

その折、永忠は自ら茶を煎じて嵯峨天皇に献上した。嵯峨天皇はその茶を大いに賞し、永忠に御冠を賜ったと記録されている。

『類聚国史』に記されたこの出来事は、日本の正史に現れる茶に関する最初の記録として広く知られている。いわば、日本茶文化史の幕開けを告げる象徴的な場面であり、その中心には、唐の茶文化を30年にわたって身につけた永忠和尚と、それを受け入れた嵯峨天皇がいた。嵯峨天皇は、唐風の茶礼を目の当たりにし、香り高い茶を味わうことで、その魅力に強く心を動かされたのであろう。

『日本後紀』弘仁6年(815年)6月3日条によれば、嵯峨天皇が梵釈寺で永忠和尚から茶を献じられてからわずか40日余り後、茶樹の栽培を奨励する詔を発している。その内容は、近江・丹波・播磨をはじめとする諸国に茶樹を植えさせるとともに、毎年一定量の茶を朝廷に献上させるというものであった。

さらに嵯峨天皇は盛んに茶会を催し、皇族や貴族たちとともに茶を楽しんだ。前述の漢詩『夏日于左大将藤原朝臣冬嗣閑居院賦得茶字』も、そうした茶会の様子を伝える貴重な記録である。

日本の研究者である中村幸氏は、その著書『茶事・茶会』の中で、嵯峨天皇が臣下の邸宅でたびたび茶会を開いていたことを指摘している。そこでは君臣がともに茶を味わい、漢詩を詠み交わし、さらに中国文化に由来するさまざまな雅遊を楽しんでいたという。

こうした茶会は比較的閉鎖的で私的な集まりであり、その目的の一つには側近たちとの信頼関係を深めることもあった。嵯峨天皇は茶会を通じて、藤原冬嗣をはじめとする有力貴族との結び付きを強め、自らの政権基盤を固めていったのである。

後の武家社会において、武将たちが集って茶を楽しむ「茶寄合」の文化が発展したが、その源流の一端をこうした嵯峨天皇時代の茶会に見ることもできる。ただし、それはさらに後の時代の話である。

いずれにせよ、その目的が政治的なものであれ文化的なものであれ、嵯峨天皇の積極的な奨励によって、日本社会では初めて本格的な喫茶の流行が生まれた。この最初の茶文化の隆盛は、後世「弘仁茶風」と呼ばれている。嵯峨天皇、永忠和尚、そして唐から伝えられた茶文化。この三者の結び付きによって、日本茶文化史における最初の黄金期が築かれたのである。