この夏、大連の大学院を卒業して働き始めた若者が上海まで訪ねてきてくれた。6年前に一緒に保護猫の活動に取り組んでいたときはまだ学部生だった。その後、計算機分野の修士課程を終え、昨年にはIT関連の職場に就職した。仕事の様子を聞いてみると、システム設計の仕事は日本と同じように激務で、残業も少なくないと溜息まじりだった。
ただ、時代が求めている技術を身に付けたため、優良企業に就職できた。何が決め手になったのかという話が興味深かった。専門性を活かせる職種、将来性のある企業という点は誰もが外せない。もう一つ重視したというのが、充実した従業員食堂が整備されていたことだった。中国の職場では食堂が準備されているのが一般的だ。日本でも大手企業を中心に食堂があるのは珍しくないが、中国では彼女のように朝昼晩の三食を食堂で摂る労働者もいる。彼女が気に入ったのは、健康に配慮した献立で長く食べ続けられるところだ(写真1)。無料でも「安かろう悪かろう」ではない。
写真1:社員食堂での健康的な食事
確かに、私のいる大学食堂でも、今年に入って「油と塩分控え目」コーナーが誕生した。中高年の教職員向けだと思い込んでいたら、若い学生たちも行列に並んでいる。しかも、連日早々に売り切れる。健康志向は若い世代にも浸透している。
中国の職場では日本ほど残業が一般的でなく、ましてや「サービス残業」を許容する空気もない。それでも、ここ10年あまりは、若い世代の間で長時間労働が増えて問題になっている。現在の経済成長を担っているのは、こうした若者たちだといえるかもしれない。苛酷な環境に置かれていると食事も後廻しになりがちだが、企業が充実した食事を提供することでそれを補っているところがある。彼女は食事の質には満足していて、自分で作る必要性を感じないと言っていた。
考えてみると、中国には、こうした「温かさ」が制度設計や環境の限界を補っているところが随所にある。実際に暮らしたり、中国を訪れたりすると実感できる。
2年前、何人かの友人を神奈川や静岡から招いて交流した。その中の一人は、何度も中国を訪れている80代の男性だった。病気を克服して久しぶりに到着した上海空港での体験はかなり印象深かったようだ。秋の行楽シーズンだったからか、空港の入国審査は長い行列ができていた。病気をした後で長時間立ったままにならないか心配していたが、いきなりそれが現実になって困っていた。ところが、空港職員は長い列のなかにいる彼をすぐに見付けて声を掛けてくれた。不安そうな表情をしていたからか、優先レーンに案内して審査を済ませてくれたのである。一緒に来ていたメンバーより1時間も早く外に出て、ベンチで休むことができた(写真2)。
写真2:上海・豫園でくつろぐ日本からの訪問者
彼が感心したのは、空港職員がそれをさも当然のことのように、自分から手を差し伸べてくれたことだった。彼自身が助けを求めたわけではない。また、職員は特別に優しそうな様子でもなければ面倒くさそうでもなく、淡々としていて、日常的にそういう対応をしていることが伝わってきたという。今まで日本でも海外でもそんな体験をしたことがない、と嬉しそうに今でもあちこちで口にしている。
確かにこれは特別なことではない。相前後して訪中した私の両親も彼と同じ世代で、同様の経験をした。長い行列に並ぶのは誰もが楽しいものではないが、支障が出かねない人のためには、それを補おうとする気持ちと仕組みがある。「ズルい」「あいつだけ得している」などという人も現れない。妊婦や小さな子どもを連れている人たちにも同じようなサポートが見られる。空港以外でも「温かみ」を感じる場面が多かったと、今も嬉しそうに振り返る。
中国社会で一般的になっている便利なサービスとして、ネット注文の配達がある。食事でも、スーパーでの買い物でも、さらには薬や工具などほとんど何でも「出前」してくれる。しかも驚くほど短時間で届く。私も野菜や果物の注文など日常的に利用している。炎天下や寒い冬に自分で買い物に出かけないで済むのは有り難い。街には、配達員の電動バイクの波が朝から晩まで行き交っている。
ただ、一件の配達で配達員が手にする額は僅かである。彼らの薄給で成り立っている制度であるため、利用することに躊躇いを感じるのは私だけではない。市民も彼らに対して配慮を示すことが多い。雨や雪の日には注文を控えたり、路上やエレベーターでは彼らがスムーズに移動できるように道を譲る人々も珍しくない。とはいえ、1日に百個以上運んでも限界がある。今では出来高だけでなく基本給も充実してきて、こうした働き方をする人たちへの権利保護も進められている。「仕方がない」では済ませず、「温かさ」を感じさせる仕組みや雰囲気がある社会には、安心感をもてる。
今月号が届く頃、中国では国慶節の長期休暇を迎える。観光地は多くの人で賑わうが、サービス業や清掃業など休めない人も少なくない。長期休暇期間の休日出勤手当ては、職種によって平常時の2~3倍にもなる規定がある。低所得の若者などの中には、あえて休日勤務を選ぶ人もいる。
私自身もこの「温かさ」に日々触れている。日本の報道を見ていると、中国で日本人が暮らすのは危険だという扱いになっていて驚く。実際には、外国人だから、日本人だからということで大切にされる場面も少なくない。中国の大学で働く外国人研究者の大多数は理科系、工学系の専門で、私のような文科系は少数である。さまざまな学術制度も文科系向けではないところがある。職場の上司はその事情をよく理解してくれ、何年か時間は要したがそれを補う仕組みを整えてくれた。生活面も含めた様々な配慮もしてくれている。もちろん、組織によって温度差はあるだろうが、困った状況にある人、不遇で苦労している人を放ってはおかない「温かさ」を感じることが多い。「自己責任論」が持ち出されることもない。
制度上の不備や限界があっても、こうした「温かさ」が居心地の良さをもたらしていることは、メディアではあまり伝わっていないだろう。長く中国で暮らしていても、日本人コミュニティやその価値観に浸っていると感じ取りにくい。暮らしのなかで感じる「肌触り」を今後も伝えていきたい。
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