2026年1月28日、日本記者クラブにおいて、一般社団法人日中協会顧問の朱金諾氏を取材した。朱氏は長年、裏千家第15代宗家・千宗室氏の通訳を務め、裏千家一門の中国訪問にも同行し、その活動を間近に見てきた人物である。中日国交正常化以降の裏千家の度重なる訪中は、民をもって官を促す文化交流であっただけでなく、日本茶道のルーツを再確認する旅でもあった。この度の取材は、日本の茶道界の中国茶文化に対する思慕を明らかにするものであった。
―― 以前、裏千家の訪中団の通訳を務められたとうかがいましたが、それは何年頃のことだったのでしょうか。
朱金諾 私が初めて千宗室先生、そして裏千家とご縁を持ったのは、1979年に訪日した時でした。1978年8月に『中日平和友好条約』が締結されると、中国政府は、廖承志氏を団長とする「中日友好の船」訪日代表団の派遣を決定しました。この知らせを受け、日本の日中友好協会および各都道府県の友好団体は、1000を超える団体・機関への訪問・視察を急ぎ手配しました。
代表団には中央の関係機関や民間団体、15の省・市・自治区から計606名が参加し、中央老幹部から末端組織の幹部、労働組合、婦人連合会、青年団まで、実に多彩な顔ぶれでした。団員は28の班に分かれて、第1班から第12班が中央班、第13班から第28班が地方班とされました。
廖承志会長は、文化大革命期に冷遇された元帥夫人とその親族を特別に参加させました。幸運にも私は団本部の通訳として、第一班要人夫人方の通訳を担当することになりました。団には、賀龍元帥、羅栄桓元帥、陶鋳、李先念、羅瑞卿、王震、王任重、宋任窮、王稼祥ら10名の夫人が参加されていたと記憶しています。今振り返ると、廖先生のこの采配はまさに先見の目であったと思います。彼女たちの多くは海外渡航の経験がなく、この日本訪問を通じて、初めて身近に先進国の姿を実感したのです。訪問団は約33の都道府県を訪問しました。
京都滞在中には、千宗室先生が裏千家の茶師とともに代表団にお茶を点てて歓迎してくださいました。団員たちはお茶そのものには馴染みはあったものの、抹茶の作法は新鮮に映ったようです。この時、私は千宗室先生に初めてお会いし、その後1980年から1983年にかけて、先生の訪中時の通訳を務めることになりました。
―― その中で、特に印象に残っている出来事は何でしょうか。
朱金諾 1979年11月の初訪中以降、千宗室先生と登三子夫人は、ほぼ毎年、裏千家の代表団を率いて中国を訪問されました。私は北京で行われた多くの重要な文化交流活動の場で通訳を務め、千宗室先生と朝夕を共にする中で、特に二つの出来事が強く印象に残っています。
一つ目は1980年に裏千家が北京の人民大会堂で開催した大規模な茶会での出来事です。それまでの訪中は少人数で、飛行機で北京入りしていましたが、この年の訪問団は400名を超えました。団の主要メンバーは若者で、「日中友好文化交流第三回裏千家青年の船」と銘打たれていました。彼らは「友好の船」で天津港に到着した後、観光バスで北京に向かいました。千宗室団長は人民大会堂友好茶会の席で、当時の全人代常務委員会副委員長の黄華氏、文化部長の王蒙氏、新華社社長の穆青氏、国家観光局局長の韓克華氏、中日友好協会会長の孫平化氏らにお茶を点てられ、日本と中国は民間交流によって、関係をさらに発展させていくべきだと挨拶されました。
もう一つは、1983年に北京の人民大会堂で、千宗室先生が李先念国家主席にお茶を点てられた時のことです。李主席はその場で、「中国では生活必需品として『柴米油塩醤酢茶』を挙げます。茶は生活に欠かせないものなのです」と語られました。これに対し千宗室先生は、「日本の茶道は『一期一会』『和敬清寂』を旨としています。私自身は『一盌(いちわん)からピースフルネスを』を理念としています」と応じられました。
―― それらの場面で、さらに印象に残ったことはありませんでしたか。
朱金諾 当時の中国には、現在のような喫茶の習慣はなく、茶葉はまだ配給制でした。茶会で使用する抹茶や和菓子はすべて裏千家が日本で準備し、手荷物として持ち込んでいました。そのため、北京訪問の後に上海や杭州も訪れましたが、大茶会は行われませんでした。おそらく、持参した抹茶が尽きてしまったのでしょう。もう一つ印象的だったのは、千宗室先生が李先念主席にお茶を点てる際、和服ではなくスーツ姿で臨まれたことです。
―― 千宗室先生と身近に接してこられて、どのような印象を受けられましたか。
朱金諾 1980年に初めて通訳を務めて以来、千宗室先生とは親しく交流させていただきましたが、中日友好への強い情熱を感じました。90歳を超えてなお中国を訪問され、京都や大阪での日中交流イベントでは自ら茶会を催され、「一盌からピースフルネスを」の信念を生涯貫かれました。1991年には中日友好協会から「中日友好文化交流使者」の称号が、2002年には中国文化部から「文化交流貢献賞」が授与されています。また、学識も非常に深く、中国の伝統文化にも精通しておられました。日本茶道の源流は陸羽の『茶経』にあると繰り返し語られ、訪中の際にはメディアの取材に対して、『茶経』の歴史的地位を高く評価されていました。千宗室先生は、中国文化の日本普及にも大きく貢献された方です。
―― 千宗室先生は確かに『茶経』を重要視されていました。後に南開大学に提出された博士論文も『「茶経」と我が国茶道の歴史的意義』がテーマでした。先生の発言は、1980年代の『茶経』研究ブームにも影響を与えたのではないでしょうか。ところで、千宗室先生ご自身は中国茶がお好きだったのでしょうか。
朱金諾 当時、海外からの賓客をもてなす際、北京ではジャスミン茶、上海や杭州では緑茶が供されるのが一般的でした。帰国の際には、土産として小さな缶に入ったジャスミン茶や緑茶をお渡ししていました。千宗室先生が特定の中国の名茶について触れられたことはありませんが、中国の茶器には強い関心を示されていました。裏千家には、中国の貴重な茶器、茶道具が多数所蔵されています。訪中の際には、北京の友誼商店に同行しましたが、磁器や茶器を購入されていました。
1987年、陝西省の法門寺地宮から唐代の宮廷茶器が大量に出土しました。その報に接した千宗室先生は、わざわざ法門寺まで足を運ばれています。これこそが、現在、日本の茶道で使用されている茶器の源流です。帰国後、先生は文章を発表し、法門寺出土の唐代茶器を日本社会に紹介されました。中国茶器に対する先生の強い関心がうかがえるエピソードです。
―― 裏千家、表千家、武者小路千家について、一般の茶愛好家には区別が難しいと思います。違いについて教えていただけますか。
朱金諾 若い頃、私は不躾にも千宗室先生に「裏千家と表千家のどちらが正統なのですか」とお尋ねしたことがあります。先生は「三家はいずれも千利休を祖とし、正統、非正統の区別はありません」とおっしゃいました。後に茶師から聞いた話では、その違いは茶湯に最もはっきりと表れるとのことでした。表千家は泡を立てず、茶湯はなめらかです。一方、裏千家は泡が豊かで、視覚的にも鮮やかさがあります。この点からも両者の特徴は明確です。表千家は質素さと伝統を重んじ、裏千家は革新と普及を重視してきました。裏千家は「淡交会」を結成し、国内各地に支部を設けて茶道の普及に努め、現在では多数の門下生を擁しています。この点は、他の二家の及ぶところではありません。
―― かつて、茶道は王侯貴族や将軍・大名の嗜みとされていました。現代の日本社会において、茶道はどのような役割を果たしているとお考えですか。
朱金諾 日本には書道、花道、棋道、香道、合気道など多くの「道」がありますが、社会的影響力という点では、茶道が群を抜いていると思います。茶道は、現代の日本社会において、かけがえのない役割を果たしています。私は、千宗室先生の代表団をお迎えするに当たり、多くの資料に目を通しましたが、1979年の初訪中の際に携行されていたのが名茶や茶器ではなく、田中角栄元首相と47都道府県知事の親書であったことは、非常に印象的でした。裏千家が日本社会において大きな影響力をもっていたことは、想像に難くありません。日本社会では、いわゆる上流階級の人々が茶道への愛着や修練を誇りとしてきました。私がこれまで随行した歴代首相の中でも、福田康夫先生や鳩山由紀夫先生は、いずれも茶道の愛好家でした。
―― 次に、日本の著名人と茶にまつわる逸話についてもお話しいただけますか。先生は長年、全日空の創業者である岡崎嘉平太氏の通訳を務めておられましたが、岡崎氏も茶道に関心をおもちだったのでしょうか。
朱金諾 岡崎先生とは茶道について語り合ったことはありませんが、中国茶をとても気に入っておられたようです。事務室には龍井茶を常備されていました。岡崎先生は1930年代後半~1945年終戦までに二度、上海勤務を経験されています。当時の上海では緑茶が人気で、その影響もあったのかもしれません。また、岡崎先生は生涯にわたって周恩来総理を深く敬慕されていました。訪中のたびに、周総理は高級緑茶である龍井茶を岡崎先生に振る舞われていたそうです。岡崎先生が龍井茶を生涯愛飲された背景には、周総理への特別な思いがあったのではないでしょうか。
朱金諾氏は千宗室氏の点茶に同行し、氏の「一盌からピースフルネスを」の理念のもと日中友好を深める
―― 現在、日本の茶道は衰退傾向にあるとも言われていますが、その要因はどこにあるとお考えですか。
朱金諾 私もそのように感じています。茶道に関心をもち、学ぼうとする人は減っています。その背景には主に二つの要因があると思います。
一つは、正座をはじめとする厳格な作法です。外国人は言うまでもなく、日本の若者にとっても難しく感じられるようです。もう一つは、礼儀作法や言葉遣いです。例えば、お茶をいただく前には必ず「頂戴いたします」と言い、「おいしい」ではなく、「結構なお点前でした」と表現します。さらに、飲み終えた後も「ご馳走様でした」ではなく、「頂戴いたしました」と言います。こうした細やかで複雑な作法を、若者は煩わしいと感じ、茶道を学びたいと思わなくなるのでしょう。
さらに、茶道の盛衰は日本経済とも密接に関係しています。周知の通り、茶道を学ぶには、茶道具、抹茶、着物などを揃える必要があり、相応の出費が伴います。茶会などの行事に参加するにも、かなりの費用がかかります。1980年代に千宗室先生の訪中に随行した茶師たちも、相当な費用を負担しなければなりませんでした。しかし、当時の日本は高度経済成長期にあり、それを重荷とは感じていませんでした。それどころか、千宗室先生とともに中国を訪問することを、生涯の栄誉と考えていたのです。しかし、日本経済が減速し、個人の所得が伸び悩む現在、多額の出費を伴う茶道を学ぶ人が減少しているのは、ある意味で必然なのかもしれません。
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