白といえば清廉潔白とか、清潔、純潔を意味するし、黒白をつけるといえば、是か非か、有か無かが問われ、白は一般的にはよい意味をあらわしている。一方、黒は、それとは正反対で、暗黒とか黒幕とかというように悪いイメージに用いられ、不祝儀を連想させる色である。
白毫銀針
お茶の世界にも、「白茶」とか「黒茶」と呼ばれる種類のお茶が、細分化された中国茶の分類のなかに見られる。白と黒とのイメージからすれば、「白茶」は感覚的に美しく、「黒茶」といえば、潜在的に汚らしいお茶だと受け取られかもしれない。
白茶とは、一般に釜炒りもせず揉みもせず、他のお茶とはまったくちがった方法で、できる限り白い芽茶(ごく若い芽のお茶)の自然の形態をこわさずにつくる微酸化のお茶で、福建省の「白毫銀針」や「白牡丹」などはその典型である。お茶の芽の一つ一つは産毛のような微細な白毛で包まれ、艶のある銀白色に輝いたお茶である。ネコヤナギの新芽を細長くしたようなものを想像していただきたい。
かたや黒茶とは、後発酵茶といって、いちおう出来上がった緑茶の粗製茶(荒茶)を湿らせて、時間をかけてカビを増殖させ、発酵させた二次加工のお茶である。雲南省の大葉種の茶葉を固めた固形茶や普洱茶などがこの種のお茶になるわけだが、ダイエットにいいお茶ながら、「カビ臭い」というイメージも一方にはある。発酵にはこうじ菌などいっさい用いず、地上菌で自然発酵するまで時間をかけて待つ。
『お茶のある暮らし』
白茶、黒茶は中国茶の話だが、わが国のお茶の世界にも白茶、青茶のどちらがすぐれているかの論争があった。
抹茶の茶銘には「〇〇の白」とか、「〇〇の昔」などのように、「白」とか、「昔」をつけるものが多い。今日、一般に「白」と命名されたものは抹茶のなかでも薄茶(薄く点じた抹茶。ふつう一人で飲む)に多く、「昔」は上等の濃茶(薄茶に対して濃く点じた抹茶、ふつう一人で飲まずに回し飲みする。一般に濃茶には高級抹茶を用いる)に名づけられるのがならわしである。
小山茂樹氏の示唆するところによれば、小堀遠州は宇治茶の命名に深く関与し、彼自身、白茶を好んだせいもあって、「白」の字を茶銘によく用いたその名残りだという。ここでいう白茶とは、江戸時代の後期の古文書によると、現代より一週間も早い、立春から数えて八十日目の四月二十五日ごろにつくられていた宇治の早摘み新茶で、まだ緑の乗らない未成熟で黄色い芽葉を摘み、碾葉をつくって臼で挽きあげた白っぽい抹茶である。このお茶に「白」の銘をつけたという。そしてこの白茶というのは、青茶に対してそう呼んだというのである。
わが国では抹茶がますますさかんに用いられた桃山時代のころから、すでにどうすれば青い茶がつくれるかが課題だったといわれるが、それもお茶の色は白いより青いほうが視覚的にいっても美しいからだろう。いつの時代でも人間の考えることは同じで、現代人とまったく同じ心理がはたらいていたと見える。
ほうれん草をゆがくとき、少量の重曹を加えると、お湯はアルカリ性となって、より鮮やかな緑色が得られる。これと同じように灰汁でゆがくと、お茶の葉は鮮やかな緑色になる。灰汁はアルカリ性だからで、これを湯引製法という。今日、重炭酸ソーダや炭酸アンモニウムなどのアルカリ性の液体を蒸し機にたらしながらお茶の鮮葉を蒸し、青い茶に発色させるのとなんら変わらない手法が、十六世紀の末か十七世紀の前半にすでに採用されていたのである(今日ではこの湯引製法は禁じられている)。
2015年熟成福鼎白茶
古田織部がこの発色茶である青茶を好み、さきの遠州は早摘み白茶を好んだらしいが、双方のあいだに青茶、白茶の論争があったかどうかは知る由もない。けれども今日でさえ同様の問題が議論されているのだから、当時の数寄者のあいだでさまざまな意見が闘わされたことは想像にかたくない。
爾来、この手法の青茶が人々のあいだでかなり好まれてきたようだが、明治十七(一八八四)年、茶業組合準則によって発色製茶法は、天然自然であるべきお茶の真の姿ではない不純な添加物混入茶として、その製造が禁止されている。とはいえわが国の発色茶のルーツは、実にいまを去る四百年余りも以前に、青茶としてすでに存在していたのである。この青茶が、将軍家にも献上されていたのだから、当時はよほど珍稀なお茶としてもてはやされていたのであろう。
ウーロン茶の代表的な品種「東方美人」
2010年熟成米香黑茶
「茶は見るものにあらず、飲むものなり」
というお茶の真髄が早い時代から色褪せ、今日にいたってもその心情が支配的だということは実に嘆かわしい。織部好みの踏襲といえば聞こえはいいが、このような見た目の茶作りが現在でも依然として闊歩しているのははなはだ残念なことである。
ちなみに「初昔」と命名されたお茶は白茶だったというし、後でできた青茶は「後昔」と命名されて将軍家へ献上されたと伝えられている。献上茶に「昔」という字がつけられたから、その後も高級抹茶の濃茶の銘に「昔」が使われるようになったという。
また俗説によれば、「白」という字は、百に一足りないから九十九というわけで、立春から数えて九十九日目の五月十日過ぎの葉からつくったお茶である。覆いの期間が短いだけ、抹茶としては「昔」よりも成熟度の足りない、内容的にも充実度が劣るお茶のため、「白」の茶銘は薄茶につけるというのである。
これに対して「昔」という字は廿日ないし廿一日と読める。二十日とは抹茶(碾茶)の茶摘みの時期で、煎茶の茶摘みの時期である八十八夜(例年は五月二日ごろ)から二十日経過したという意味である。うま味の多い抹茶にするために、抹茶用の茶畑には太陽の直射を避ける覆いがかけられるが、二十日経過して摘んだ茶葉は色艶もよく成熟した味わいのお茶となる。
まあ、これは一つの俗説だが、私はまんざら根拠のない話ではないと思っている。俗説とはいえ科学的だし、今日のお茶の作り方に当てはまる、もっともな話だからである。
〽夏も近づく八十八夜…… あれに見えるは茶摘みじゃないか……
唱歌の「茶摘み」は広く愛唱されているが、八十八夜とは立春から数えて八十八日目の夜で、この歌の普及とともに八十八夜すなわち茶摘みと思っている人が多い。しかし、八十八夜という用語はもともとお茶のみにかかわってできたものではない。中国の農暦のようなもので、「八十八夜の別れ霜」といって、このころに晩霜の降りることが多く、農産物にとって一番の大敵である霜の害に注意を促すためにいわれだしたものらしい。あるいは農家で種を播く一つの目安とするための日でもあるという。そのような習慣が歳月を経て、いつの間にか、ちょうど時期が一致する新茶とのかかわりを深くしていったのであろう。
政和老寿眉
ところで私事で恐縮だが、「白」といえば、先だって私どもの元大番頭が九十九歳の白寿を迎えたので、ぜひとも祝いの席に来てほしいと招かれたことがあった。一族で祝賀の宴が開かれたのである。私どもに勤めて四代にわたる主につかえたというだけあって、わが家の生き字引のような人である。若いころから根っからの健康人だったし、好き嫌いもなく、ついこのあいだまでかくしゃくとして茶業に従事してきた。骨組ががっちりとして身体も大きく、一まわり小さくなったというものの、六十キロ以上の体重だとか。九十歳のころでも、四十キロ入りの茶箱を軽々と持ち運びしたほど元気そのものであった。
明治二十七(一八九四)年生まれで、当時小学校は四年制であった。卒業してすぐ、わが家に丁稚奉公に来て、間もなく私の親父が生まれて抱いてもらったというから、正真正銘、わが店のぬしである。以来、茶業にあって八十有余年、根っからのお茶好きで、まさにお茶とともに人生を歩んできた数少ない人だ。その間、かたときもお茶から離れたことはなく、常に座右に茶盆を置いて、お茶を喫するという自適の日々を送っていた。人から長寿の秘訣をたずねられると、必ず、
「お茶を飲んでいるから元気なのです。お茶は養生の仙薬、延寿の妙薬。長生きしたければみなさんお茶を飲むことです」
と答えていた。百八歳を「茶寿」という。茶の字の草冠の二十と八十八で百八というわけだ。願わくば、きんさん、ぎんさんに負けることなく茶寿といわれる百八歳以上生きてもらいたいと願っていた。文字通りお茶を喫して長生きをしている、お茶が健康によい標本のような人だからである。残念ながら百三歳でこの世を去ったが、実にわが社の誇りの一人であった。(谷本陽蔵『お茶のある暮らし』、株式会社平凡社、2012年6月8日初版第1刷より抜粋)

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