中国茶文化学者の楊多傑氏が日本記者クラブで講演
日中茶文化対話が新たな章を開く

9月6日午後、日本記者クラブで新たな文化講演が開かれた。同クラブはこれまでにも訪日した中国指導者を招いて講演を行ってきたが、中国茶文化の学者が登壇するのは今回が初めてである。

講演を行ったのは、中国茶文化学者で「多聊茶」の創始者、日本中国茶研究所所長でもある楊多傑氏である。彼は元時事通信ニューヨーク特派員・岡野龍太郎氏の招きを受け、「『茶経』の歴史的意義と時代的価値」をテーマに、日本のメディア関係者や文化人に向けて体系的で深みのある講演を行った。

今回の講演会には、日本の主要メディアの記者のほか、岡野龍太郎氏が主宰する「岡野塾」の塾生も多数参加した。会場では『日本華僑報』編集長の張桐が通訳を担当した。日中関係における文化交流の流れの中で、この講演は大きな注目を集め、鳩山由紀夫元首相や羽田次郎参議院議員からも祝電が寄せられた。

講演の冒頭、楊氏はまず出席者に感謝を述べた。彼は「親友である岡野氏の企画と招待のおかげで、日本記者クラブという場で、日本のメディア関係者や市民の皆さまと中国茶文化を分かち合う機会を持てた」と話した。また、『人民日報海外版日本月刊』編集長・蒋豊の助言があったことで、今回のテーマがより現実的で大きな意味を持つようになったと謝意を示した。

続いて楊氏は、自分が抱いてきた疑問について率直に語った。中国歴史文献学の研究者として、彼は長い間「現代のように情報があっという間に広がる社会で、人々は今も千二百年以上前の典籍『茶経』を読むのだろうか」と考えてきたという。この問いに対する答えは、彼が2015年に始めた『茶経』シリーズ講座で明らかになる。

同講座は中国のインターネット・プラットフォームで公開され、総再生回数はすでに170万回近くに達し、2万5千人以上が有料で学んでいる。これは古典が忘れ去られていないどころか、時を超えて新たな魅力を放っていることを示している。

その後の研究成果の紹介では、楊氏は近年収集した稀覯本『茶経』を取り上げた。なかでも最も貴重なのは、明末に刊行された「問奇閣本」である。この版本は中国本土では長い間失われ、国家図書館ですら所蔵していなかった。2023年、楊氏はこの書をオークションで偶然発見した。それは日本の漢学者・長尾甲の旧蔵本であった。長尾甲は、西泠印社の初期に参加した外国人社員であり、呉昌碩をはじめ中国の著名人とも深く交流した人物である。この文献の数奇な伝来は、日中茶文化交流を物語る証しとなっている。

そして2024年、楊氏はこの書を精密に復刻し、研究論文を添えて中国書店出版社から正式に出版した。今回の講演では、日本東方出版社が刊行した日本語版を来場者に贈呈した。彼は「この『茶経』が日中文化交流の架け橋となり、より多くの日本の茶人が陸羽の知恵と魅力を感じ取ってほしい」と語った。

さらに楊氏は、『茶経』の成立背景についても言及した。『茶経』は唐代・上元二年(761年)以前に執筆され、その後たびたび増補され、総字数はおよそ7000字、3巻10章から成る。世界で最初の茶学専門書である。著者の陸羽は幼少期に捨て子であったが、学び続ける努力を重ね、やがて唐代の文人となり、『茶経』を著したことで後世に「茶聖」と尊ばれるようになった。

「茶の歴史は神農氏に始まり、茶文化の歴史は『茶経』に始まる」と楊氏は強調した。『茶経』は茶の起源、製造法、器具、飲用法を体系的にまとめただけでなく、「飲茶」(唐代から続く「お茶を点てて飲む習慣」を指す)を庶民の慣習から知識人の文化活動へと高めた点に大きな意義がある。唐代の文人たちは『茶経』に触発されて茶詩を盛んに作り、『全唐詩』には600首以上が収録されており、白居易一人だけでも64首を残している。これらは茶文化の広がりを示す確かな証左である。

また日中交流に触れる中で、楊氏は多くの史料を引用した。彼によれば、日本における「飲茶」は嵯峨天皇の時代にさかのぼることができる。僧・永忠は30年にわたり唐に滞在し、『茶経』の理念に接し、それを持ち帰った可能性が極めて高い。彼は帰国後、嵯峨天皇に茶葉と茶の種を献じ、それが契機となって「弘仁茶風」を引き起こしたのである。日本の貴族階層は茶を嗜むだけでなく、詩歌、琴楽、釣りと結びつけ、唐代茶文化の洗練された伝統を受け継いだのである。

ここで楊氏は、「日本が最初に接触したのは、『茶経』を基盤とする唐代知識人の茶文化であった」と指摘した。この特徴は日本の茶道の形成に大きな影響を与えた。茶は日本社会において、美的価値や心を磨くという意味を持つようになり、最終的に千利休らの茶人によって「和敬清寂」を中心とする茶道哲学へと発展したのである。

さらに楊氏は、『茶経』は学術的な典籍であるだけでなく、現代においても価値を持つと強調した。2019年に国際連合が「国際お茶の日」を制定したこと自体が、茶文化の世界的な意義を物語っている。茶はもはや単なる農産物ではなく、国境を越えて共有される文化的な象徴となったのである。

そして楊氏は、日本の明治期を代表する美術家・岡倉天心もまた茶文化の研究者であったことを強調した。岡倉が『茶の本』を執筆した当時、彼は異国の地アメリカ・ボストンに滞在していたが、それでも常に陸羽の『茶経』を携え、参考としていたのである。

また、先ごろ逝去した日本茶道の大家・千玄室も、「『茶経』と我が国茶道の歴史的意義」を題とする博士論文を著していた。これらの事実は、日本の学界および茶道界が一貫して中国唐代の『茶経』を重視してきたことを物語っている。

質疑応答の時間には、メディア記者や日本の茶人から、『茶経』の翻訳、茶道の発展、さらには日中茶文化の比較など、多岐にわたる質問が寄せられた。楊氏はその一つひとつに丁寧に答え、「茶は一杯の飲み物にとどまらず、文化の架け橋である」と改めて強調した。

最後に岡野氏は、「今日の講演は『茶経』の価値をより深く理解するだけでなく、日中文化交流に新しい視点をもたらすものとなった」と総括した。

講演の最後に、楊氏は自らが日本で出版した二冊の著作――『雅なる中国茶詩』と『明刊問奇閣本「茶経」』を日本記者クラブに寄贈した。彼は、これをきっかけにより多くの日本のメディア関係者が中国の茶文化を理解し、親しみを持ってくれることを願ったのである。

この講演は、学術的な発表にとどまらず、文化的な対話の場ともなった。楊多傑氏は、研究者としての厳密さと茶人としての情熱をもって、日本のメディア界に中国の茶文化の豊かさを示したのである。『茶経』は千年を超えてなお光を放ち、その香りは日本記者クラブを舞台に国境を越え、日中文化交流の新たな契機となった。