近代日本の中国茶見聞録
幕末・明治・大正・昭和前期

茶をめぐる日中交流の歴史は古い。史料に残る記載としてすでに平安初期の嵯峨天皇に茶を煎じた逸話や、嵯峨天皇御製の茶を詠んだ七言絶句がある。史載に徴する限りでも日本が中国から飲茶の習慣を摂取してから少なくとも1200年を超えている。とはいえ、日本には緑茶を中心とする茶葉の普及、侘び寂びを重んずる茶の湯、明代にいたって廃れた抹茶の茶道など、中国の茶文化とは系統を異にする独特の飲茶文化が発達してきた。日本ならではの風土・地勢・気候にも因るが、遣唐使が中断してから国風文化が栄えたこと、江戸時代の鎖国令以降230年に及ぶ対外貿易・来航の禁止など中国大陸との直接交流が途絶えたことなどの歴史的要因も大きい。

近代にいたり、両国間の茶文化交流史は一大変革を来した。アヘン戦争やペリー来航を契機として海禁や鎖国から開国へと転じ、日中間で再び人びとの往来や物資の交易が可能となり、直接交流の規模が拡大していった。とりわけ日清戦争(甲午戦争)の前後から、日本が帝国主義的拡張を続け、大陸への経済的拡張を推し進めてから、日本人の大陸への渡航が盛んになった。渡航者の陣容を見ても、密偵の偵察、軍人や専門家の調査、財界人の出張、官僚の在外公務、新聞記者の取材、文人の旅行、学者の実地調査など、その属性や渡航目的は多種多様である。

それまで主に書籍を通してのみ摂取してきた中国文化を、現地で直接見聞するようになった。彼らの目には喫茶をめぐる風景はどのように映っていたのだろうか。彼らが残した旅行記や調査報告書のなかに書かれた中国茶に関わる見聞を通して、近代以降の日本人の中国茶に対する認識の軌跡をたどってみたい。彼らは中国茶の何に関心を抱き、何を調査し、そこからどのような知見を汲み取り、日本の茶文化とのどのような異同に気づき、日本の茶業や茶文化の発展に活かそうとしたのかを明らかにしたい。

幸いなことに、幕末から明治を経て大正年間にいたる時期の日本人の膨大な渡華見聞録を収録したアンソロジーが日本で出版されている。小島晋治監修『幕末明治 中国見聞録集成 全20巻』(1997年)、同『大正 中国見聞録集成 全10巻』(1999年)、孫安石監修・解説『近代中国都市案内集成 上海編 全12巻』(2012年)、吉澤誠一郎監修・解説『近代中国都市案内集成 北京・天津編 全13巻』(2012年)である(いずれも、ゆまに書房刊)。収録された作品のうち、中国茶に関する記載のある作品は20種、作者は20名に上った。このアンソロジーの後続となる昭和年間については、終戦までに刊行された関連書目として、早稲田大学中央図書館収蔵の大陸紀行文を調べ、7名の13作品を収集した。このほか関連のアンソロジーとしては、1874年から1979年まで575冊に及ぶ旅行記を博捜して収集し解題を施した、東洋文庫現代中国班編『新編 明治以降日本人の中国旅行記』(2025年、公益財団法人東洋文庫)がある。ただし膨大な情報量であり今回はまったく参照することはかなわなかった。

これら作品群を執筆された時代順に概観してみると、中国茶へのまなざしの変遷が跡づけられていることに気づく。茶への関心事を分類してみると、時系列順に、物産としての茶葉から、生活習慣しての茶館を経て、伝統としての茶文化へと大別できる。そこで本誌を借りて3回に分けて見聞録からの引用を取り混ぜて日本人の中国茶認識の形成と変遷を瞥見してみよう。なお、著者の主に関連書の執筆当時までの履歴について、特に断りのない限り『幕末明治 中国見聞録集成』『大正 中国見聞録集成』巻末所掲の「著者略伝」に依拠して注記を加える。また引用に当たり旧字を新字に、歴史仮名遣いを現代仮名遣いに、総ルビの場合はルビを削除し、句読点のない原文には適宜句読点を施す。

1853年ペリー来航、翌年、魏源『海国図志』の輸入と和刻本の翻刻などを契機として海外情勢への関心が高まった。幕府の貿易視察団が清国に派遣され、随員の一人高杉晋作は『遊清五録』を著した。この頃から中国訪問の見聞録が増えてくる。

本稿執筆にあたって参照した中国見聞録集成のうち、最初に中国茶の記載が見られるのは美術家の納富介次郎による『上海雑記』(文久2、西暦1862年、草稿)で、

「酒店ノ傍ニハ必ズ茶店アリ。人酒店ニ過ギリ、出デ去ルトキハ必ズ茶店ニ立チヨリ茶ヲ喫ス」

とあり、すでに中国社会における茶および茶店の機能を観察している。

上海から入り、清国の発行した護照を携帯して全土を遊歴した軍人の曽根俊虎は、『北支那紀行』(明治8、1875年、出版社不明)にて、杭州にて龍井茶を産すること、「浄慈寺ノ大僧龍井茶二包ヲ齎ラシテ来訪ス」など記している。

政治家の尾崎行雄は『遊清記』(原書は明治17、1884年、その後大正15、1926年に平凡社刊)において、上海豫園の湖心亭の茶亭に遊んだときの光景を記す。そこには中国・中国人に対するあからさまな蔑視の感情が見て取れる。通常、日本人における中国および中華文明に対する敬意から蔑視の転換は日清戦争勝利が契機となったと言い習わされてきた。だが、それ以前の幕末維新期の渡航遊記において、庶民の生活実態を描写した記載の中にすでに確認される。

後藤昌盛(経歴未詳)は『在清国見聞随記』(明治17、1884年頃?写本)においてこう記し、世界市場における貿易品としての茶葉に注目している。

「此地ヨリ磚茶ヲ露国及蒙古地方ニ出ス、其包装ハ皆一様ニシテ竹梱一個ニ磚茶八個乃至十個ヲ容ル。是亦一個ノ一大貿易品ナリ。」

「土民ハ常ニ多ク駱駝ヲ山ニ放牧シ、用アレバ一人ニテ六七頭ヲ索キ来リ(一人ニテ七頭以上ヲ牽クヲ禁ス)、之ニ物貨殊ニ磚茶ノ梱ヲ載セ運搬スルヲ常トス。」

「同国ニテ最モ多ク製茶ヲ出スハ福建ニシテ、各地ヲ経テ蒙古地方ニ輸出ス。」

さらに輸出産業としての茶の現状と将来性についての展望を示し、日本茶と中国茶の国際協力の比較をしている。

「北京ヨリ北方ニ当リ張家口ニ輻輳ス●(判読不能)地ニハ支那茶商五名アリテ従来専ラ之ニ従事シ、又露商一名アリテ専ラ自国ノ輸出ニ従事セリ。然ルニ露商ハ往々約ヲ犯シテ密ニ自国ノ他ニモ輸出スルヲ以テ巨利ハ常ニ露商ノ手ニ落ルヨシ。二十八年来天津ニ在留セル一露商アリ、此者ノ言ヲ聞ニ露国ニテハ海運ニテ輸入セシ相場ヲ陸運セシモノニ比フレハ、常ニ凡一割半廉ナリ。蓋シ海運セシモノハ香気少シトシ、中等以上ノ者ハ嗜マサル故ナリトカ。蓋シ最初海運ニテ茶ヲ輸入セシ時、其包装ノ充分ナラサリシカ、又ハ其他ノ源因ヨリ偶香気ヲ失ヒシ事アリテ、遂ニ其誤ヲ永ク伝フルニ至リシナランカ。又緑茶ハ近頃露国ニテモ漸ク嗜好者ヲ増スノ景況ナレバ将来本邦ノ茶モ必同国ノ貿易市上ニ上ルノ時アルベキコトト思ハル。目今支那茶ノ輸出如此盛ンナルヲ凌駕シテ天津口ヨリ我茶ヲ露国ニ輸出スルガ如キハ容易ニ望ム可カラザル事ナラン。」

安東不二雄(経歴不詳)は『支那漫游実記』(明治25、1893年、博文館)において、茶の起源について考証を施し、特に欧州市場における国際商品としての存在感に着目している。

「茶葉は古より支那に出で泰西には曽て之ありしを聞かず、故に泰西諸国には其名無かりしかば、茶の伝来せし後も別に特名を有せず、均しく之を茶といふ、支那の福州(閩)の音を借り、之を訳して字をなせしならむ。蓋し茶の欧羅巴に入りしは、西暦千六百十年、即ち明朝の末にあり。(中略)今日に至ては、欧人の茶を用ふること、猶ほ彼の珈琲と一般なるに至れり。」

また飲茶の習慣について、日本との比較の視点から観察している。

「支那人は決して冷水を飲まさるを以て、茶を売る可憐の貧童等、小桶と大茶碗とを携へ、辻々の車夫等に向て、斯の医渇剤を供給し居るを見る。恰も我国の寒氷を売る者に似たり。立番の査公も時々聞召さる、一厘銭を投して大椀一杯を得らるるなり。」

このほか物産としての名産地あるいは積出港として、蕪湖、漢口、宜昌(欧米輸出用の紅茶)、重慶、寧波、温州、厦門、台湾、打狗、淡水、瓊州(海南島)、澳門を挙げる。さらに茶にまつわる婚姻の際の「授茶」の習俗を詳細に紹介している。

高橋謙(経歴未詳)は南方調査の見聞録『支那時事』(明治27、1894年、日清協会発行、冨山房発売)にて、茶の名産地として蕪湖、江口、徽州府、祁門より浮梁に至る260里を挙げ、茶の市場・積出港として九江、武漢を挙げる。祁門茶については「祁門産上等紅茶一担ニ付凡ソ三十弗ニシテ」との価格情報を加える。風土と農産物の作況との関連について農業概況をまとめる。

「大凡北緯三十五度ヲ以テ境トナシ、以南ハ土地肥沃草木青々山水清秀ニシテ有名ナル米、茶、生絲、綿花、砂糖等ノ産地ナレルモ、以北ハ概シテ山野荒涼水利ノ便ナク、麦、豆及ヒ獣皮、獣毛ヲ産スルノミニシテ全ク米ヲ産セサルナリ。」

幕末の開国から明治維新を経て日清戦争に至るまで、日本人の中国見聞は、地理・風土・物産・民情・治安などの情報を取得することに主眼が置かれていた。見聞記を残したのは政治家・官僚・実業家などで、何らかの密命や使命を帯びて渡航し、各地を歴遊し、短期の視察旅行を通して実地調査を行った。中国茶については単なる飲料というだけではなく、農業生産品としての物産、国内外の交易品としての経済資源、国民全体に普及した飲食習慣としての関心から、その実情を調査し報告した。この時期の日本人は、中国茶を実利的観点から商品として捉える眼差しが主流であったといえるだろう。