敗戦から81年目、酷暑の夏・日本 ――平和への人類の鎮魂歌

多発する地震そして大雨による水害も頻発し、日本列島は天変地異の脅威が続いている。世界的な異常気象による強烈な酷暑と水害が地球規模で起きているのだ。

そして何よりも日本では政治の貧困が戦後最大の危機を招いている。

政治評論家の森田実氏は晩年、「日本人が社会的倫理観を失った」と語った。森田氏の東大の後輩で思想家の西部邁氏も「古代ギリシアから民主主義に希望を持てない。絶望のみが希望だ」とさえ言い切った。立ち位置は違うが吉田茂もまた総理引退後に「まったく政治は貧困である。日本のデモクラシーは・・・・大部分の民衆はその真意を理解していない。・・・・これは敗戦の宿命的な現象とも言える」とその著作『大磯随想』で結んでいる。いずれも敗戦国日本の今日を見据えていたことには相違はない。にもかかわらず戦後生まれの女性宰相が公然と、「戦争を知らない世代だから反省もしない」とうそぶく姿には唖然とするのみである。社会的倫理観を見失った日本は再び暗黒の時代の扉に手を懸けたかのようだ。

毎年のように今年もまた、広島と長崎への原爆投下から81年となる被爆81周年式典が広島は6日、長崎は9日に開催された。広島は「平和祈念式典」、長崎は「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」と式典の名称は異なる。変わらぬ歴史の証言である。

日系二世の弁護士ジョージ山岡氏が、東条元首相を含む戦争犯罪裁判で法定に証言する(極東国際軍事裁判)

1945年7月「ポツダム宣言」が公表される前日の25日に米国は既に原爆投下目標を確定していた。それは1945年8月3日以降、広島、小倉、新潟、長崎の4カ所である。さらに令和になってから、米軍がさらに日本全土に29発の原子爆弾を落とす計画があったと判明した。想像するだけでも戦慄するような恐怖である。

しかし、アメリカは広島、長崎への原爆投下を経て日本のポツダム宣言受諾、全面降伏を受けて敗戦国日本の占領政策を展開することになる。基本は日本の歴史の分断である。

その極めつけは、ポツダム宣言に基づき、日本の侵略戦争や戦争犯罪の責任を問うための極東国際軍事裁判(東京裁判)であり、1946年5月3日から1948年11月12日まで東京市ヶ谷の旧陸軍参謀本部講堂で開廷した。

裁判官は裁判長ウィリアム・ウェブ(オーストラリア)ほかアメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦、中国、カナダ、インド、オランダ、ニュージーランド、フィリピンの連合国11か国からの各1名で構成された。罪状は「平和に対する罪(A級犯罪)」、「通常の戦争犯罪(B・C級犯罪)」、「人道に対する罪」であった。

A級戦犯は東条英機、広田弘毅など28名が、1928年1月1日から1945年9月2日にかけて「侵略戦争」を起こす共同謀議を行い、「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」したとして「平和に対する罪」に問われ、判決は、死刑(絞首刑)7名、終身禁錮(終身刑)16名、有期禁錮2名であった。松岡洋右と永野修身は裁判中に病死、大川周明は精神障害と診断され訴追免除となった。

死刑判決の7名は、1948年12月23日の深夜に巣鴨プリズン内の処刑場で絞首刑にされた。その場所は現在サンシャインシティの中央公園であり片隅に「平和の碑」が建つ。A級戦犯処刑の翌日24日に巣鴨プリズンから釈放されたのは岸信介、笹川良一、児玉誉士夫である。この日正午、日本の神社仏閣や教会の鐘が鳴り渡った。平和の鐘である。

この東京裁判では、日系二世の米国弁護士のジョージ山岡が日本側弁護人として見事な弁論を展開した。山岡は、幕末の「江戸城無血開城」の立役者山岡鉄舟の孫である。西郷隆盛と対峙し、慶喜公を守り、江戸の戦禍を回避したのは勝海舟ではなく山岡鉄舟である。西郷隆盛をして「金もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と称えた傑物である。

その孫にあたるジョージ山岡は、日本語と英語が堪能であることからダグラス・マッカーサー元帥の招きで来日し、東郷茂徳と元首相で外務大臣の広田弘毅の副弁護人として弁護に当たったのである。

山岡は「被告は公正な裁判を受けたと信じているが、国際法は裁判に適用されないと考えている」と述べ、一貫して軍部に抗した広田弘毅が有罪判決を受け死刑を宣告された時には、山岡は憤慨した。「広田が民間人としての役割と、実質的に政府を動かしていた軍を制御できなかったこと、そして “日本の民間指導者の罪を被った”ことを考慮すると、広田は無罪か、より軽い刑罰を与えるべき」と語っている。広田弘毅が民間人として唯一死刑になったことは山岡にとって承服しがたいことであったのだ。

1949年の巣鴨拘置所

そして広田弘毅、東郷茂徳、その他5人の被告が死刑判決を不服として米国大審院に控訴したとき、山岡はワシントンDCでの口頭弁論で「たとえ判決が国際法廷によって言い渡されたものであっても、米国の最高裁には判決の合憲性を審査する権利がある」と主張した。そして「この裁判に米国人が参加している限り、その参加の範囲内で憲法の保障が適用されなければならない。米国人将校は、その保障に違反する行動をとることは出来ない」と舌鋒鋭く弁論している。またジョージ山岡は広田弘毅の弁護人として、「太平洋戦争に至っては、彼の反対は権限も権威もない眇(びょう)たる一市民の声に過ぎなかった」と広田弘毅を弁護している。

まさに祖父・鉄舟を彷彿とさせる武士の矜持を示した気骨ある日系二世の米国弁護士であったのだ。山岡はワシントン大学を経て、ジョージタウン大学ロースクールを出た日系アメリカ人として初めてニューヨーク州弁護士会に入会した。この裁判で山岡が収集した文書は、現在ジョージタウン大学法学図書館に所蔵されている。

山岡はその後、ニューヨークで三井物産や三菱商事、伊藤忠、日本郵船、新日鉄など日本の大手企業の顧問弁護士として国際化の礎を築いたのである。事務所はワンワールドトレードセンターの78階のワンフロアを占め、米国人弁護士50人を有する大手事務所であった。1981年11月にマンハッタンでタクシー乗車中に心臓発作で急逝された。

2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件を記録した写真集
『NEW YORK SEPTEMBER 11 ― ニューヨーク セプテンバー 11』

今は、山岡弁護士もこの世になく、ワールドトレードセンターも同時多発テロで瞬時にして消滅したが、広島も長崎もあの日の惨状は忘れない。

歴史を紡ぐことこそが、平和への鎮魂歌である。