日本は長い215年にわたる鎖国時代を経て明治維新以降,「脱亜入欧」「和魂洋才」のスローガンのもと一気に西欧化が進み、先進国の仲間入りを果たした。軍備においても近代兵法学としてプロイセン流兵学が主流となり、陸海軍とも精神的には『孫子』を評価するも、結果として戦略戦術としての「孫子兵法」研究自体は減少した。一方で、『孫子』は教養書、啓蒙書、ビジネス書としての日本社会に深く浸透することとなる。その源流となったのは、「近代日本経済の父」と言われる渋沢栄一の『論語と算盤』の経営哲学である。渋沢栄一は、日本の実業界、資本主義の制度を切り拓き、「日本資本主義の父」「実業界の父」とも呼ばれている人物である。
しかし、渋沢栄一が経営の基本に据えたのは、中国の古典『論語』である。「人はどう生きるべきか」「どのように振る舞うのが人として優れているのか」とする『論語』の教えを、実業の世界に取り入れ、本来の資本主義の持つ「欲望」という猛毒を中和させるために「論語」という漢方薬を処方することで激変する日本社会の安定化を図ったのである。
もちろん、それまで江戸時代の日本の士農工商の社会にあって、最も身分が低いとされる商人階級の中から大商人が台頭し、商人文化が開花し、武士道にも勝るとも劣らない「商人道」ともいえる日本人としての倫理観が確立されていた。このことも「論語」を受け入れやすい社会的土壌があったと判断される。渋沢は「論語」を以て、江戸商人と西欧近代ビジネスの橋渡しをしたのである。
渋沢栄一は水戸學と同時に海外事情にも詳しく、その経営戦略を成す思想は渋沢栄一の説く「道徳経済合一説」である。明治維新以降、日本社会は立身出世、金儲けの風潮がまん延し、徳川時代に長きにわたり武士道や商人道の規範となっていた道徳、儒教の倫理観は過去の遺物とばかりに忘れ去られていた。
そこで渋沢は1916年に著わした『論語と算盤』で、「道徳経済合一説」という理念を打ち出し、『論語』を拠り所に倫理と利益(算盤)の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにするために、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説いたのである。渋沢のこの経営哲学を表わす端的な言葉は、『富をなす根源とは何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することは出来ぬ』であった。
この渋沢栄一の倫理観、道徳規範は孔子の論語と共に広く日本社会に浸透し、日本人の人生観や生活の知恵として、またビジネスの心得として人々の精神を育んでいくことになる。そして中国古典の『論語』と同時に日本社会に浸透したのが『孫子』である。とりわけ『孫子兵法』は経営者のリーダーシップ、組織論として会社経営の中核をなすようになる。
後年、『彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず』などの格言を経営哲学として実践したのが、松下電器(パナソニック)の松下幸之助や京セラの稲盛和夫である。松下幸之助は松下電器創業期の1932年5月に“水道の水のように低価格で良質なものを大量供給することにより、物価を低廉にして、消費者の手に容易に行き渡るようにしよう”という経営理念の「水道哲学」を提唱し、松下電器発展の基礎を築いている。また折に触れて『企業は人なり』も主唱している。孫子組織論の要諦である。
孫子の言葉は、『論語』とともにビジネスマンの日常会話となり、人々の日常生活の一部となって日本人の精神文化の一つとして当たり前に語られている。日本を代表する多くの大企業の経営者が、『孫子』に学んだと言ってはばからないほど、経営者にとっては『孫子兵法』は経営の手引書であり、自らが名経営者であることの証でもあった。
たとえば代表的言葉には、次のようなものが挙げられる。
・敵を知り己を知れば百戦して危うからず
・戦って勝つのは下策。戦わずに勝つのが最上
・其の疾きこと風の如く。其の徐かなること林の如く。侵掠(しんりゃく)すること火の如く。動かざること山の如く(風林火山)
・兵は詭道なり。(戦争とは敵をだます行為)
・戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり
・凡そ戦いは正を以て合し奇を以て勝つ(正攻法で相対し、奇策を使って勝つ)
・善く戦う者は人を致して人に致されず(人を動かし、人に動かされない)
これらの格言こそが、日本式経営の核心となったのである。繰り返すが、日本には「武士道」があり、同時に江戸時代の商人には「商人道」があった。この「武士道」と「商人道」を貫く精神は、千利休の「茶道」にも通ずる人間としての高い精神性であり、人としての倫理観でもある。
こうして江戸の商人魂から、渋沢栄一を経て、戦後の日本経済成長の範となり経営の神様とも言われた松下幸之助、京セラの稲盛和夫など名創業経営者により継承されてきた経営理念には「孫子」や「論語」の精神が色濃く出ているのである。
かつて中国の珠海の製薬メーカーの工場を訪れた時に、工場内に「整理」「整頓」「清潔」「清掃」との標語が張りだされており、それが松下電器の工場から学んだことだと知ったが、現在の日本では日本人が人としての倫理観を失い、自己中心主義の罠にはまり、松下幸之助や稲盛和夫など優れた先達の奉仕の精神が忘れられているのではないか。
中国古典の再学習こそ日本再生の王道であり近道であろう。
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