「未来志向」を求めて(5)
葛藤と沈黙を平和に転じる:撫順戦犯管理所を訪ねて

戦争の傷痕は、もう癒えたのだろうか。日本とのはざまで暮らしてきた中国人の私にとって、80年前に終わった戦争は、心の奥底に霧のように立ちこめる戸惑いの源であり続けてきた。

1980年代生まれの私が祖父母らの語りや教科書を通じて知った日本は、まずもって侵略者の姿である。良い印象は持っていなかった。しかし、大学院生時代にアルバイトで接した日本人たちは誰もが誠実で親しみやすく、それまでの日本イメージとは違っていた。その後、日本に留学して親切で友好的に接してくれる人々と暮らすなかで、それが現実の日本だと感じるようになった(写真1)。

写真1:日本の市民との餃子作り(中央筆者)

ただ、そうした平穏な日常が突如として切り裂かれる瞬間があった。戦争が話題になる時である。例えば、授業で侵略戦争の話になると、教室はたちまち静まり返る。日中関係の冷え込みに心を痛めても、歴史の背景には誰も触れようとせず、話題を逸らす。戦争は「過去のもの」となったわけではない。十数年も日本で暮らすなかで気まずさをほとんど感じなかったのは、多くの日本人が戦争の話題を避け、私もあえて口にしなかったからだった。実際には越えがたい溝のようなものが横たわり、長く暮らすほどその存在を実感するようになった。

それこそが、戦争の傷痕なのだと感じさせられた印象深い経験もした。

初めて来日した年、山形の合宿教習所で中国出身の友人たちと運転を習っていた。朝食時に中国語でお喋りしていると一人の老婦人が突然近づいてきた。彼女は言葉を詰まらせながら侵略戦争の謝罪をしたいと述べ、返事も待たず深々と頭を下げた。直接の被害者ではない私たちに何を詫びているのか。ピアノの前で悲しげな曲を弾く彼女を、黙ったまま見守るしかなかった。

もう一つは、フィールドワークの授業で静岡の小さな漁村を訪れた時のことである。90歳を過ぎた漁師は、私が中国人だと分かると急に話題を変え、中国での戦場体験を語り始めた。日本兵の悲惨な境遇を繰り返し口にし、自らの部隊が激戦でほぼ全滅し、自分だけが生き残ったと痛ましげに回想した。漁村の暮らしに話を戻そうとしても彼は意に介さず、兵士の名簿や作戦地図、表彰状などを次々と取り出して見せた。家族の制止も気に止めない。侵略戦争の最前線にいた日本兵から率直な思いを聞いたのは初めてだった。ただ、彼が見ていたはずの中国人やその被害についてはまったく語らない。山形の老婦人とは違って謝罪でもない。私を前にして、なぜ自分たちの無力さや悔しさばかりを必死に伝えようとしたのか理解できなかった。この老兵もまた戦争の傷が癒えていないことだけは感じ取れた。

留学を終えて帰国し、大学で「中国近現代史」を教えることになった。侵略戦争期の歴史を扱い、戦争犯罪の実態を論じるときには、学生と共に怒りや憎しみに駆られそうになる。同時に、日本で出会った優しい市民や二人の老人のことも脳裏に浮かび、複雑な感情に戸惑う。両国の人々の感情も理性も大事にした平和観をどう見出していけばいいのか。

6月に中国・撫順の戦犯管理所陳列館を訪ね、大きな示唆を受けた。ここは1950年にソ連から引き渡された日本人戦犯を収容した施設で、元は日本軍が中国人を拘束するための監獄だった。新中国成立後に改修され、内部に監獄特有の重苦しさはなく、明るく開放的だった。居室は広く清潔で、劇場や医務室、浴室に菜園まで備え、設備の整った学校のようだった。展示は、日本人戦犯の更生と裁判の歴史を三部構成で紹介している(写真2)。

写真2:撫順戦犯管理所の展示の前で

第一部では、戦犯が中国で行った残虐行為と収容の経緯を示し、彼らの戦時中の悪行を誰もが理解できるようになっている。第二部では、新中国の人道主義的な戦犯待遇や寛大な判決結果を描く。なぜ厳罰を与えなかったのかと疑問を感じる見学者もいるだろう。第三部では、罪を認め悔い改めた戦犯たちが、帰国後に平和団体(中国帰還者連絡会)を結成し、社会からの排除や右翼の圧力に直面しながらも、粘り強く反戦平和と日中友好に尽力したことが紹介される。

見学していた高校生に感想を尋ねてみた。「あれほど侵略されたのに、私たちは戦犯に寛大すぎると最初は納得できなかった。でも、彼らが帰国後に中日友好のために尽くしたと知り、それならば受け入れられると思う」。

実際、収容当初の戦犯たちは尊大で傲慢だった。管理所の職員たちは中央から戦犯の人格を尊重するよう指示を受けたが、耐えきれず苦悩した。それでも根気強く更生教育を続けた結果、戦犯の内面が揺らぎ始める。学習や討論を経て、過去の自身の行為を一つ一つ書き連ねるなか、はじめて自身が言い訳のきかない加害者だったことに気付き、衝撃を受けた。

展示の前でふと、あの漁師のことを思い出した。彼の心には深い葛藤が渦巻いていたのではないか。だからこそ、頑なに自分たちの被害ばかりを語り続け、最後まで謝罪しなかったのではないか。それに対し、戦犯たちは苦悩しながらも自身の加害者性を受け入れることで葛藤を解消した。そうしてはじめ、管理所職員や検察官もまた戦争被害者としての葛藤を抱えていることに気付けた。

もちろん、罪と向き合うには計りしれない勇気が要る。彼ら自身の内面の闘争に加え、戦犯であっても更生できると信じ、それを歴史の必然にしようと新中国が努力していなければ不可能だった。この歴史が教えているのは、平和とは自然にもたらされるものではなく、痛みを抱えた人々が葛藤の中でそれぞれの過去を乗り越える選択を重ねた結果だということだ。歴史に学び、記憶するのは憎しみを引き継ぐためではない。過去を避け、沈黙していては平和を手にすることはできない。学生たちにそう伝えたいと私自身が思えるようになった。

加害者であれ被害者であれ、戦争がもたらした傷痕に正面から向き合い、感情や記憶、理性を一つ一つ解きほぐしていくことが、私たちを分断する深い溝を少しずつ埋めていく。過去に真摯に向き合うことだけが、自他の傷を癒やし、和解をもたらす。第二の故郷とも言える日本を想う者として、両国の人々が痛みと沈黙を乗り越え、ともに歴史に向き合い、世代を超えて真の友好を築くことを願ってやまない。〔本文は上海市哲学社会科学規画課題「‘中归联’及其和平实践活动的资料整理与研究」(2023BDS009)」の成果の一部である。〕