中国銘茶探訪(10)
歙県・珠蘭花茶

北京の人びとはジャスミン茶を好んで飲むが、かつて北京には二つの花茶が存在していたことは、あまり知られていない。一つはジャスミン茶、もう一つが珠蘭花茶である。ジャスミン茶だけを扱うようになったのは、ここ数十年のことである。では、かつて隆盛を極めた珠蘭花茶の名が聞かれなくなったのはなぜなのか。その産地、製法、味はジャスミン茶とどう異なるのか。2025年6月、筆者は歙県県委宣伝部の招きで黄山を訪れ、珠蘭花茶の生産現場を視察した。ここに文献資料と現地での見聞を交え、日本の愛好家に中国・歙県の珠蘭花茶を紹介する。

珠蘭花茶

真珠のような花と

蘭のような香り

ジャスミンの花は有名だが、珠蘭の花を知る人は少ないかもしれない。その美しさはジャスミンに決して劣らない。珠蘭は常緑で横に広がる低木で、高さは30~60㎝、茎は幾重にも伸び緑色をしている。花は真珠のようで、香りが蘭のようであることから「珠蘭」と名付けられた。また、花が魚卵のように小さいことから「魚子蘭」と呼ばれたり、咲きはじめが青緑色で、やがて金色となり小さなトウモロコシのように見えることから「金粟蘭」とも呼ばれる。

珠蘭はアジア南部原産の植物である。現在、中国では広東、福建、台湾、安徽、江蘇、四川、浙江などで栽培されているが、香り付けに用いる珠蘭の栽培は安徽省歙県が最も盛んである。歙県の珠蘭栽培と珠蘭花茶の製造は数百年の歴史を誇る。言い伝えによると、清の乾隆年間、歙県出身の蕭氏が福建で官職にあった時、珠蘭を知り、その香りに魅せられて故郷に持ち帰ったのが始まりとされる。初めは盆栽として門前に飾っていたが、やがてその花で茶に香り付けをするようになった。

歙県の伝統的な花房

摘み取ったばかりの珠蘭の花

ハウスで栽培される珠蘭花茶

珠蘭の香り付け工程

名を馳せた珠蘭花茶

珠蘭花茶はなぜお茶愛好家に愛されたのか?第一に、高級茶は蘭香が命である。もともと香りの豊かな茶葉に珠蘭の香り付けをすれば、その芳香はさらに際立つ。古い茶人たちは「歙県の鉄葉大方に珠蘭を薫じれば、その香気と味わいは西湖龍井に勝る」と言った。第二に、珠蘭花茶は口当たりがよいだけでなく、体にもやさしい。中医学では珠蘭は辛味と温性をもつ植物とされる。緑茶の冷えを嫌う人は多いが、珠蘭で香り付けした緑茶は、まろやかで体にやさしい。珠蘭花茶は飽きがこない上に、胃にも負担をかけない。

新中国成立後、国営歙県茶工場が珠蘭花茶の製茶技巧を継承した。1980年代に出版された『茶用香花志』によれば、当時珠蘭花茶を生産していたのは安徽歙県茶工場と福建福州茶工場のみで、歙県茶工場は最大の生産量を誇った。間もなく古希を迎える、歙県・珠蘭花茶製茶技術の省無形文化遺産伝承人である張雲仙女史は、歙県茶工場の元従業員であり、珠蘭花茶を熟知する。彼女によると、当時、歙県茶工場では年間4万丹(2000トン)もの珠蘭花茶を生産し、隆盛を極めたという。

 

珠蘭の花を摘む筆者

珠蘭の香り付け工程を体験する筆者

珠蘭花茶衰退の理由

この素晴らしい珠蘭花茶を、なぜ口にできなくなってしまったのだろう?珠蘭花茶の製法には二つの大きな難点がある。珠蘭栽培の難しさと香り付けの難しさである。いずれも容易に解決できるものではない。一つひとつ説明していこう。

珠蘭は今なお地植えができず、一株一株、鉢植えで育てるしかない。珠蘭は暑さにも寒さにも弱い。歙県は南方に位置しているが、冬の寒さは厳しい。珠蘭が冬を越せるよう、農家はさまざまな工夫を凝らしてきた。今も歙県に行くと、高速道路の両側の山の中腹に古い建物が並んでいるのを見かける。それらは人が住む建物ではなく、珠蘭ために建てられたものである。毎年霜が降りると、茶農家は珠蘭の鉢を一鉢一鉢、花房と呼ばれる建物に移す。花房は木の板でつくった簡易な小屋ではなく、煉瓦づくりの立派な建物である。それでも、花卉農家は寒さを恐れ、戸や窓を厚い藁のむしろで覆い、冷気を防ぐ。

一鉢一鉢世話をするには多くの人手が必要だが、若者は出稼ぎに出てしまい、人手は減る一方で、珠蘭の栽培量は減少の一途にある。筆者が歙県を訪れた際、かつて賑わっていた花房の多くは廃墟と化していた。珠蘭の価格は高騰し、2024年には1斤(500g)の平均価格は200元(約4000円)を超えた。一時は350元(約7000円)を超え、黄山の生葉価格を大きく上回る水準となった。

珠蘭花茶は花の価格が高いだけでなく、香り付けの工程も複雑である。歙県の珠蘭の花期は短く、5月から8月の100日程度である。摘み取りは夜明け前の3時から日の出前の7時までに行われ、8時には工場に届けられる。摘み取った花はそのままでは使えず、手作業で選別する必要がある。熟練の職人が茎や香りのない白花を取り除く。この工程は機械化できないことから、コスト増に繋がっている。

その後、選別された珠蘭を広げて数時間乾燥させ、昼食どきに香り付けの工程に入る。伝統的な珠蘭花茶には緑茶が使用されるが、2015年頃から、張雲仙氏ら茶匠によって紅茶にも試みられ、好評を博している。香り付けする際の花と茶葉の比率はおよそ1対10で、24~48時間かけて行う。茶師はこの間も注意を怠らない。温度が高くなれば、必要に応じて通風も行う。通常は1回の香り付けで充分であるが、上等品は2度行う。7回香り付けしたという話があれば、それは誇張と見てよい。珠蘭もジャスミンも香りが高く、花は取り除かず、そのまま茶葉に残す。時間とともに茶と花の香りはより調和し、珠蘭花茶は熟成するほど味わいも深くなる。ぜひ一度試してほしい。

(編集協力:周静平)