「未来志向」を求めて(4)
武漢在住日本語教師が見た中国

思いがけず中国で日本語教師をすることになって、はや8年が過ぎた。「普通の日本人」だった私が中国の学生や市民と過ごすなかではじめて気付いたこと、少しずつ見えてきたと感じることがある。中国の捉え方が変わるなかで、日本社会についても見え方が変わってきた。

もちろん、この広い中国のすべてを知っているなどと思っていない。遼寧省大連市、湖北省恩施市と武漢市の3つの大学での限られた体験に過ぎない。それでも、私が触れた中国の現実の幾つかを“ミクロな日中関係”として読者と分かち合ってみたい。

一つは、中国社会に対する「権威主義的」というイメージである。日本のメディア等では中国を語る際に、この言葉が多用される。公的機関は一部の権力者の考えだけで運営され、大多数の構成員の主張や権利が蔑ろにされているとの見方が支配的である。私自身も以前はそのイメージを共有していた。しかし、実際に中国で生活してみると、人々の声を政策に反映させるための特徴的な回路が各層に備えられていることに気付く。

例えば、中国共産党が伝統的に推進してきた「調査研究」がある。簡単にいえば、日常生活で人々がどのような課題や困難に直面しているのかを調査し、それを政策や組織運営に反映させようとする取り組みである。担当幹部が地域コミュニティや職場などの現場を自ら訪れ、草の根の人々から直接意見を聞くところに特徴がある。

写真1:職場での「座談会」

勤め先の外国語学院でも昨年11月末にそうした趣旨の「座談会」が開かれた。副校長をはじめとする数名の担当幹部が、共産党員ではない教員や私のような外国人教員など十名ほどの出席者に対し、大学の教育カリキュラムや運営方針などについて一人一人から意見を求めた(写真1)。私は当時、学生との交流を兼ねた会話練習の場として「日本語サロン」を企画していたが、学内に適当な場所が見つからず、担当職員も消極的で困っていた。思いきってこの話をしたところ、会議に参加していた担当幹部がその場で担当職員と調整し、活動場所を手配してくれた。他の教員らの批判的意見を含む熱い議論や、私のような現場の教員が抱える日常の小さな問題に対しても担当幹部が迅速に対応する姿勢から、「座談会」が単に形式的な意見交換の場ではないことが感じられた。こうした場が中国全体で幅広く持たれているという。日本では「陳情・請願」など市民が議員らに“お願い”に上がるが、それとは別の形の人民民主の日常といえる。

もう一つは、過去の戦争に対する認識である。戦争の話題は「重くて敏感な話」として職場でもプライベートでも語られる場は決して多くはない。それでも何度か中国の人々の声を聞く機会があった。

写真2:学生との交流場面

 

湖北民族大学にいた頃、スピーチコンテストに参加した学生が「日中国交正常化50周年 私のメッセージ」というテーマで語ったエピソードが印象に残った(写真2)。彼女は帰省時に年配者に大学での専攻を聞かれた際、「日本語」とは答えづらく「外国語」と答えた。戦争による被害が原因で日本に複雑な思いを抱く人もいるため、そうした感情に配慮して「日本語」と言えなかったという。彼女はフィギュアスケートの羽生結弦選手のファンだが、一方で日本の政治や戦争責任への姿勢に違和感を持つ人の気持ちも理解している。中国では毎年、7月7日(盧溝橋事件)や12月13日(南京大虐殺)などの節目に「勿忘国耻!(国恥を忘れるな)」の言葉とともに被害の深刻さや「抗日」の記憶が語られ、犠牲者への黙祷が捧げられる。アニメやドラマなどを通して日本に親しみを感じる若者も、一方で侵略を否定したり美化したりする日本に困惑する。その複雑さは以前には見えていなかった。

一昨年の12月には浙江省桐郷市でのフィールドワークに参加した。地元の戦史を調査する沈涛さんから、1937年12月に当地で日本軍による集団虐殺があったことを教わると同時に、当時を知る3人の老人からお話を伺った。戦争被害者から直接話を聞けるのは中国にいるからできることとはいえ、少し緊張していた。日本軍の暴力や脅迫による日常的な食糧供出などの被害が昨日のことのように語られた。傍にいたお子さんたちは「子供のころから何度もこういう話を聞いた」という。被害の記憶が当事者から子世代へと受け継がれているのに比べ、日本では加害の記憶がほとんど語られないことに気付かされた。私が子供時代に親戚から聞いた戦争体験は食糧難などの苦労話が中心で、学校での平和教育も原爆被害などが強調されていた。

私の緊張をよそに、古老たちは「今の世代の日本人には関係ない」と私たち日本人の訪問を歓迎してくれた。ただ、耳にした過酷な被害体験は「あなたたちの国は何をしたのか?」と問いかけているようで、自分は本当に無関係なのかという思いが残った。

後になって、子供の頃に言われた言葉を思い出した。ボサボサ頭の私を見た戦中生まれの年配者は「そんなチョウセンジンみたいな髪をして。早く散髪に行ってこい」と言っていた。侵略戦争を支えた祖父母世代の社会規範や差別意識から自覚的に断絶する取り組みがほとんどなかった以上、孫世代の私たちもそれを摂取しているのではないか。

そんな自分が中国で日本語教師をすることの歴史性を自覚したいと考え、2年前に大学院に進学した。中国東北の植民地統治下の高等教育を対象に史料を読み込むと、戦時中の周辺民族に対する蔑視的眼差しが溢れていて驚いた。それは「先進的な日本人は近代化が遅れたアジアの人々を教導する」という理路として正当化され、植民地統治を支えていたことを知った。現在もその眼差しと無縁でないが故に、「権威主義的」な中国は西欧由来の民主的制度を備える先進的な日本に学ぶべきという意識が生じるのではないか。原爆や食料難といった被害や苦しさばかりが見えて、中国や朝鮮半島の人々が経験した被害や苦しみをなかなか見ようとしないのも同じ連続性がもたらしているのではないか。

時代の変化の中で何が変わり、何が変わらずに戦後世代の私たちに摂取されたのか、戦後世代の私たちが知らぬ間に戦前の構造を再生産していないか、自問し続けていきたい。日本の現在に複雑な思いを抱きつつ、被害者への黙祷を続ける中国の人々に応えられる未来のために。